海津城(8)

その後、信玄は海津城を川中島の一大拠点にするにあたって、城を大拡張しその中心を当時千曲川河畔の現在地に置いた。
完成した海津城は地蔵峠や北国街道を監視する意味からも、そこに外郭部を据える必要があった。
そのとき、軍事的な要塞香坂氏の城館を外郭の一部に組み入れたのである。
 そこは、かつて香坂氏の居住地であったため、香坂屋敷とか弾正曲輪という名で呼ばれた。しかし、海津城がその城内に香坂氏の館城を取り入れたことから話はややこしくなり、海津城が二つ存在したかのようになっていったのではなかろうか。
 なお、『長野県町村誌』によれば、清野屋敷のあった大英寺辺りは「総堀」とも呼ばれているという。
これは、まさしく海津城外郭の堀がそこに存在したことを示している。
現在、大英寺境内にわずかに残る堀跡はまさしくその名残であろう。
また大英寺の古い図をみると、かつてはその北側、東側にも堀が存在していたことが分かる。
大林寺とその北に接する証蓮寺の墓地の一画には当時の土塁の一部がわずかに残っている。
高坂屋敷は確かに海津城の外郭付近に存在していたのである。
『松代町史』に掲載されている海津城絵図を見ると、海津城の外郭部にあるこの高坂屋敷跡の部分が南に張り出しており、かつて、そこに城館があったことをうかがわせる。
 以上のことから、『甲陽軍鑑』の「清野氏の屋敷の跡に海津城が築かれた」という記述はまさに香坂氏によって後の海津城に先だって築かれた城のことを指していたのではなかろうか。

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