海津城(6)

 この大英寺辺りは北国街道候可峠を越えた道が地蔵峠につながる戦略上極めて重要な位置にある。
 ここに何らかの軍事施設を築いたとしても少しも不自然ではない。清野甚八郎の居館はただの日常生活の場というだけではなく、軍事的な要塞の意味もあるいは兼ねていたのではなかろうか。
 以上のことから推理すると、『つちくれ鏡』のいう「清野屋敷」とは鞍骨城主であった清野山城守の居館のことではなく、弟の清野甚八郎こと西条治部少輔が海津に移ったときに住んでいた居館のことを指しているのではなかろうか。
 『長野県町村誌』には「高坂弾正が在城せる本の海津の城と云うは今の城にてはなし、今の大林寺と大英寺の間に、少しかき上の構成あり。是本の高坂弾正が在城の海津城なりと云う」とあり、「清野屋敷」の跡に築かれた海津城は後の海津城ではないことを伝えている。
 また、同誌によれば、その清野屋敷の場所は「高坂弾正屋敷」「弾正曲輪」とも呼ばれているという。
 「屋敷」はともかく「曲輪」という名称はまさにそこが確かに城の一郭であったことを物語っている。
 となると、海津城は二つ存在したことになる。一つは現在の大英寺辺りに存在した香坂氏の海津城、そしてもう一つは現在の松代城の場所に築かれていた海津城である。

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