海津城外郭の土居は大林寺の墓地の中

そういえば、『長野県町村誌』に「今の大林寺と大英寺の間に、少しのかき上の様成跡あり」とあった。何と、海津城の外郭の土居もまだ残っていたのだ!顔はいかついが、どこまで親切な住職さんなのであろうか。このような人に旅先で会うとほっとするものである。
私は大英寺の住職に言われた通り、今度はそこから二百メートルほど先にある大林寺を訪ねた。
あいにく、寺の住職は留守であったが、住職の奥さんと思われる品のいい老婦人が応対に出て、私が「大英寺さんの紹介でここにきた」というと、すぐに私を寺の墓地まで案内してくれた。
老婦人は私を案内しながら「住職がいたら、あなたさんを歓迎したと思いますよ。住職も歴史がお好きで、この辺りの歴史についてよく研究されてるから」と住職の留守を残念がっておられた。
 さて、墓地には着いたものの、そこは一面墓石がびっしりと立ち並ぶだけで、城跡を示す土居のようなものはどこにも見当たらなかった。私が婦人に「あのー、どれが、土居の跡なのでしょうか。」と訪ねると、「あなたの目の前がそうですよ。」と婦人は目の前にある一画を指差した。
しかし、どう見てもただの一団の墓石の集まりでしかない。私が困ったような顔をしていると、婦人は、「ここにくればよく分かりますよ。」と私を墓石の側面に案内し、「ほら、ここから見ると、この一画だけが他に比べて一段高く盛り上がっているのが分かるでしょう。」と教えてくれた。
確かに、墓地はこの一画だけが高く盛り上がったようになっている。私は、墓石の間を抜けてその一画に登ってみたが、確かに他に比べて2メートル近くは高いようだ。
 私はやっとこの一画のお墓が城の土居の上に建てられていることに気が付いた。かつての海津城の外郭の土居はこうして墓地という形を取って後世に残されていたのだ。
「ずっと昔は、この土居の前は川が流れていたようですよ。」と婦人は話してくれた。私は土居の切れ目まで進むと、そこで写真を撮らせてもらった。
お墓の写真を撮ることなどめったにないことだが、「歴史の研究のためだ。この墓地に眠る人も許してくれるだろう。」そう自分に言い聞かせて写真を撮った。
その様子を婦人は微笑みながらじっと見ていた。

タイトルとURLをコピーしました