海津城(4)

 『長野県町村誌』によれば、清野氏は海津城西の鞍骨山頂に築かれていた鞍骨城を本拠としていたが、武田氏により鞍骨城を落とされ天文22年村上義清とともに越後に走ったとされている。
 その時点で鞍骨城は武田氏の手に移り、清野氏の居館も武田氏のものとなったわけで、後にその清野氏の居館跡に城を築いたとしても少しの矛盾はない。
 しかし、鞍骨城を本拠とした清野氏の居館が現在の大英寺と大林寺の辺りにあったとは位置的にとても考えにくい。
 というのは、あまりにも両者は離れているからである。
 居館は通常の生活の場であり、城は戦時に避難したり、立てこもるためのものである。この両者があまり離れていては意味がない。
 それを裏付けるように『長野県町村誌』には清野氏の居館の場所について、かつての清野村の北で字中沖というところにあり、そこは清野氏が数代にわたって住んだところで、後にそこに天満宮が勧請されたと記されている。
 また、『更級郡誌』には「(清野氏の居館の場所は)大村集落の入り口にある台地上の小平地で、現在は小峰神社の境内になっている。」とある。 
 そこは、現在の長野市松代町清野にあたり、地図で見ると妻女山と象山(竹山)のちょうど中間あたりに位置する。
 となると、清野氏の居館の場所は大英寺や大林寺の辺りなどではないことは確かである。
 もちろん、現在の松代城のある場所でもない。
 それでは、『つちくれ鏡』でいう清野屋敷とはいったい誰の屋敷を指すのであろうか。

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