海津城(5)

 『長野県町村誌』には、清野氏の総領の清野山城守は村上氏に従って越後に行ったものの、その舎弟の清野甚八郎は武田に降り、兄清野山城守の本領をそのまま安堵され清野から西条村に移り住んだという記述がある。
 さらに清野甚八郎は西条村に移ってからは名を西条治部少輔と改めたというのである。
 西条氏は、清野氏から分かれた家で、現在長野市松代町西条にある象山の山頂に築かれている竹山城(西条城)を居城にしていたとされている。
 これが事実なら清野山城守の舎弟清野甚八郎は武田氏の被官となるについて、なぜか清野氏を継承せず、一族であった西条氏の名跡を継いだことになる。
 弘治二年に信玄は東条の城普請を西条治部少輔に依頼しているが、『長野県町村誌』の記述が事実なら、この人物こそ清野甚八郎その人であるということになろう。
 だが、清野甚八郎が西条氏を継いだとしても、西条氏の代々の居館はその居城竹山城のある象山のすぐ南の松代町西条表組もしくは東南の松代町西条市場付近とされていることから、これも大英寺と大林寺付近ではない。
 となると、清野甚八郎は西条氏を名乗っても、その代々の居館には住まずに大英寺と大林寺付近に新たに屋敷を構えたということなのであろうか。
 竹山城から大英寺と大林寺は地図上では五百メートルほどであるが、実際大英寺辺りに立つと竹山城のある象山はすぐ間近に迫ってくる感がある。まさに、大英寺辺りに居館を構えたとすると、竹山城(西条城)は位置的にその詰めの城としては十分な近さといえる。
 それを裏付けるように『長野県町村誌』にも「清野氏が海津(大英寺付近)へ移った」との記述があり、そのような伝承が存在したことをうかがわせる。

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