海津城(2)

これより少し前の同年六月一五日の香坂筑前守への書状にも「在城」に対する奉公として、更科郡横田に三百貫の地を宛外うとあり、この城も海津城だと考えられている。
この香坂筑前守は『更科埴科郡地方誌』によれば、海津城築城にかかわった人物とされており、弘治二年(一五五六)五月に海津城に近い、八郎丸郷(長野市松代町)を与えられている。となると、香坂筑前守は海津城の完成以来そこに在城したことになろう。
この香坂氏は、『甲陽軍鑑』『武家事紀』によると、永禄四年五月、上杉謙信に通じた罪で信玄より誅され、その名跡を信玄の重臣の春日虎綱が継ぎ、高坂弾正と名乗ったとされている。この、あまりにも有名な高坂弾正であるが、実はその存在については多くの疑問がもたれている。
『甲斐国志』は春日虎綱の香坂氏継承を否定している。
また、『更級埴科郡地方誌』も「後に偽作された文書以外は、当時の武田氏関係の文書等には高坂弾正昌信の名は全く見当たらない。」とし、高坂弾正昌信の名は『甲陽軍鑑』の創出であるとしている。
さらに、柴辻俊六氏も「(春日)虎綱が信濃更級郡の高坂(香坂)家を継承したという点もふくめて検討の余地がある。」(『川中島合戦の虚像と実像』)とし、その理由として「現存する数通の虎綱の差出文書はすべて春日姓のものであり、その子信達も春日姓のみである。」(同)としている。
 それでも海津城がいつから築城の工を起こされ、いつ完成したかは不明である。
『長野市誌』は海津城の完成を永禄元年(一五五八)五月から永禄三年(一五六〇)九月までの間としている。
 一方、『更科埴科郡地方誌』は海津城は香坂氏の手で弘治三年(一五五七)ころには築城されたとしている。
しかし、この海津城は永禄三年ころ完成した海津城とは明かに異なっている。なぜなら、その場所があまりにも違いすぎるのである。

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