海津城(7)

この二つの城の関係について『長野県町村誌』は清野氏の屋敷跡に海津城を築き高坂弾正に之を守らせたが、(現在地に)城を移すに及んでその古城の地を高坂の屋敷となし、そこを城の一つの郭としたため、「弾正郭」という名が残ったとしている。
つまり、当初の海津城は現在の大英寺辺りにあり、そこには香坂氏が在城していた。その後、何らかの理由で城が現在地に移されたときに、そこはそのまま新海津城の一つの曲輪として取り入れられたというわけである。
 それでは、なぜ、城は現在地に移されたのであろうか。
その理由については、文献上からは何も分からないが、あえて推測すれば、信玄の命により、海津の地に領地をもらって牧之島から移ってきた香坂氏は自らの領地八郎丸郷に近い清野甚八郎こと西条治部少輔の居館を改修して自らの居城とした。
そこは北国街道候可峠を越えた道が小県に抜ける地蔵峠につながる戦略上極めて重要な地点であったため、軍事的な要塞が必要だったためである。
もし、ここに軍事的な要塞があれば、北国街道筋を守る尼飾城と共に鉄壁な守りになる。
この香坂氏が信玄の命でこの海津にきた目的は海津城の築城にかかわるためであるが、同時に地蔵峠や北国街道の監視の任務も与えられていたのであろう。いずれにしても、海津の地に自らが住む城館が必要であった。これが、当初の海津城であった。

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