大英寺住職が教えてくれた海津城外郭の堀

 『長野県町村誌』の「前海津城跡」の項によれば、「今の大林寺と大英寺の間に、少しのかき上の様成跡あり、今の城よりは東南に当たる、(中略)大英寺向通を総堀と云うなり。」とある。
「総堀」というのは、海津城外郭の堀のことである。
この記述はまさに松代の大英寺に海津城外郭の堀があったということを示すものであるが、果たして、今でもそんなものが残っているのだろうか。
そこで、私はこの海津城の外郭の堀跡の存在を確かめるため、一九九九年十一月のある日曜日、一人東京から車を飛ばして長野松代の町に出掛けて行った。
大英寺はかつての城下町の寺町ともいうべき、いくつかの寺が集中している一画にある。
大英寺に向う途中、道が鋭角にカーブしているのは、そこにかつては城下町の木戸があったことを示している。
松代の町は藩主真田氏の屋敷や文武学校などが今もまだ残っていて、城下町の面影が随所に残っている静かな町である。
大英寺も松代藩主真田氏ゆかりの寺で、かつての北国街道がこの寺の南側を通っていた。
 大英寺に着くと、その門前にある小さな池が目に入った。そこでは、魚が「パシャパシャ」と音を立てて元気よくはねており、池の中では、何匹かの鯉が大きな口をパクパクしながら泳いでいた。
しかし、この池、ようく見ると少し不自然な感じがする。
というのは、池は寺の庫裏の床下にそのまま続いているように見えるのである。まるで、庫裏の床下から急に池が出現したような、そんな感じなのである。しかも、池はきれいな長方形をしている。
「もしかしたら」私は、そんな予感をもった。そう、この池こそ、かつての城の外郭の堀跡なのではないかと思ったのである。

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