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外国人宣教師の見た日本の戦国時代52

1541年4月7日、ザビエルはイタリアから同行したミセル・パウロ、イエズス会に入ったばかりのポルトガル人修練士フランシスコ・マンシーリャスと共にインド総督の率いるナウ船サン・ティアゴ号に乗ってリスボンを発ち、モザンビークなどを経由し、翌年の...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代51

加えて、マルコポーロの『東方見聞録』によって、中国からあふれ出た富が南シナ海からインド洋に循環し、そこでイスラム世界からの商品と交換されて繁栄を謳歌する港湾都市が紹介されるや憧憬はますます強くなっていった。このような状況の中で、キリスト教宣...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊿

それはポルトガルから見れば、ポルトガル領インドでの武力による領土の獲得とその経営は、背後に「神の国」建設を目指す修道会があるかぎり、浄化され、正当性をもつことができた。このように、インドにおけるカトリック布教はイエズス会以外の諸修道会の手で...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊾

一方、ポルトガルは1494年6月7日付でスペインと締結したトルデシ―リャス条約によって、中近東から東南アジア、日本に至るまでのポルトガル領東インドにおいて、きわめて排他的な航海領域を設定し、そこに包括される大陸や島に対する航海、征服、貿易、...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊽

また、ポルトガル本国には、ただでさえ、優秀な人材が不足しており、それをゴアの前線に送ることなどとてもできなかった。そこで本国政府は、初期のころから、強制的に頑強な物乞い、無宿者、前科者といった非戦闘員を兵士として徴収し、ゴアに送り込んだ。こ...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊼

ポルトガルは、東インド領国に数多くの要塞を築いていたが、それは主にインド西岸から西の地域と海域に偏在していた。また、要塞の運営といっても、大規模な部隊や軍事力を投下していたわけではなく、大砲などの若干の武器とそれを操作する兵士を配置したに過...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊻

しかし、その硝石も1560年代の終わりには、「土硝法」という人工的に硝石を生産する技術が生み出され、実戦に必要な最小限度の硝石を賄うことができるようになった。これによって、豊後国内でも「土硝法」による硝石の生産が行われるようになり、1570...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊺

鉄砲の伝来が武器移転であったことにより、その製造方法、操作方法等にともなう一連の技術が広まり、鉄砲は豊後府内、平戸、坊津(鹿児島県南薩摩市)根来、堺、そして近江国友においても生産されるようになった。大友宗麟の領国豊後においては、鉄砲の銃身に...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊹

一方、1510年にゴアを攻略したポルトガルは、その翌年、1511年にマラッカを陥落させ、ゴアとマラッカを結ぶルートが、ポルトガルの東南アジア海域進出の基幹航路となった。現代においては、鉄砲や硝石がポルトガル船以外のルートで日本にもたらされた...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊸

ポルトガル人は、1580年四月、国力を超えた拡大膨張政策とインド洋の香辛料貿易の衰退が原因で疲弊し、スペイン国王フェリペ二世によって併合された。そこで、イエズス会はスペインとの軍事的連携を行った。ポルトガルは、鉄砲や大砲、弾薬に火薬を携えて...