外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊺

鉄砲の伝来が武器移転であったことにより、その製造方法、操作方法等にともなう一連の技術が広まり、鉄砲は豊後府内、平戸、坊津(鹿児島県南薩摩市)根来、堺、そして近江国友においても生産されるようになった。
大友宗麟の領国豊後においては、鉄砲の銃身に不可欠な鉄は、国東半島の山砂鉄、大野川、大分川流域の川砂鉄を採取して利用していたことが分かっている。
弾丸の製造に必要な鉛は大野郡宇目郷木浦山(大分県南海部軍宇目町)、緒方郷尾平鉱山(豊後大野市緒方町)から採取して利用された。
さらに、火薬の製造に欠かせない硫黄も豊後には豊富にあった。
豊後は薩摩とならび古くからの鉛の産地であった。
しかし、火薬の主成分である硝石だけは天然では産出されないことから、すべて輸入に頼らざるをえない状況であった。
日本へは主に中国、シャムからポルトガル船や中国船で供給された。
大友宗麟は、イエズス会との関係が出来ると、領内への布教と引き換えに、イエズス会士を通じて硝石の輸入を行った。
宗麟は1567年(永禄10年)にマカオのカルネイロ司教に毎年硝石200斤の輸入を依頼したことはよく知られている。

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