外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊼

ポルトガルは、東インド領国に数多くの要塞を築いていたが、それは主にインド西岸から西の地域と海域に偏在していた。
また、要塞の運営といっても、大規模な部隊や軍事力を投下していたわけではなく、大砲などの若干の武器とそれを操作する兵士を配置したに過ぎなかった。
ポルトガルの要塞配置とその軍事的経営は、東インド領国とその商業網の防衛が目的で、日本を武力征服するような規模ではなかった。
しかも、それらの要塞は、商館のある沿岸部に点在していたため、有機的な軍事力は全般的に脆弱なものであった。
リスボンから、ゴアまでの航海では台風による難破や沈没、航海途上の熱病などが原因で大勢の乗組員がゴア到着以前に死亡することが多かった。
1574年8月7日付ヴァリニャーノがイエズス会総長に宛てた書簡によると、航海の条件(凪が原因)が悪いと海上で30日も40日も足止めをくらい、60日から70日以上のことも度々であるとし、そこでは、猛烈な暑さが原因でいつも大勢の者たちが病になって死んでしまう、たった一度の航海でも死者の数が100人に達したり、100人を超えたりすることもあると述べている。
こうした事情から、アジア地域の征服に必要な兵士をポルトガル本国に求めても、ゴアまでの航海の途中で、その30%から50%が死亡する事態が生じていた。
この結果、喜望峰から日本に至るポルトガル領東インド全域では、身体頑強な兵士は1万人足らずであり、最大規模の軍隊さえも、2000人未満であったことが、現代の研究で分かっている。

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