外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊹

一方、1510年にゴアを攻略したポルトガルは、その翌年、1511年にマラッカを陥落させ、ゴアとマラッカを結ぶルートが、ポルトガルの東南アジア海域進出の基幹航路となった。
現代においては、鉄砲や硝石がポルトガル船以外のルートで日本にもたらされた可能性が指摘されている。
例えば、後期倭寇の頭目の王直は、1540年ころには五島列島や平戸を拠点に活躍しており、ポルトガルによる種子島への鉄砲伝来よりも以前に「王直ルート」で鉄砲と硝石が日本にもたらされ、一部の日本人の間で知られていた可能性は高い。
戦国時代の日本において、火縄銃の弾の原料として使用された鉛が、タイのソントー鉱山から算出されたものであったことが判明している。
しかし、王直は1557年に捕縛され、1559年に処刑された。
この時期、1550年代半ば以降の時期は、ポルトガル人がマカオでの居住が認められ、そこを拠点にポルトガル船が恒常的に九州各地に来航する時期でもあった。
その時期は、イエズス会宣教師が、硝石や銃などの軍需物資を餌に布教活動を本格化させ、教団武器外交を展開して教勢を拡大しはじめた時期でもあった。
ここに、「王直ルート」に代わる新たな「イエズス会―ポルトガルルート」という軍需物資獲得のルートが誕生することになった。

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