外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊿

それはポルトガルから見れば、ポルトガル領インドでの武力による領土の獲得とその経営は、背後に「神の国」建設を目指す修道会があるかぎり、浄化され、正当性をもつことができた。
このように、インドにおけるカトリック布教はイエズス会以外の諸修道会の手でイエズス会の進出を待つまでもなくすでに開拓されていた。
しかし、インドにおける布教はそれほどの拡大を見せず、停滞していった。
聖三位一体会、フランシスコ会、ドミニコ会の宣教師たちは、布教対象をインドに駐在するポルトガル人に設定し、現地住民に対する改宗活動に積極的でなく、また、インドでの布教従事者が少なく、さらに当時のインドではヒンズー教やイスラム教の勢力が強かったことから、布教は伸び悩んでいた。
このような布教の停滞を打破すべくポルトガル国王やローマ教皇によって、期待されたのがイエズス会であった。
中世ヨーロッパは貧しい農業地帯で、当時の世界の後進地域であった。
これに対し、東洋の絹や香辛料は豪奢品であり、これらを産出する中国はヨーロッパの支配階級にとってインドとならぶ憧憬の地であった。
紀元一世紀にローマ人がすでに数回、中国を訪れており、西暦166年にもマルクス・アウレリウスの使者が中国の洛陽を訪れ、226年にもローマからの使者が中国を訪問していることから、このころすでに富める国、文明国中国は彼らの憧れの地であった。

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