外国人宣教師の見た日本の戦国時代51

加えて、マルコポーロの『東方見聞録』によって、中国からあふれ出た富が南シナ海からインド洋に循環し、そこでイスラム世界からの商品と交換されて繁栄を謳歌する港湾都市が紹介されるや憧憬はますます強くなっていった。
このような状況の中で、キリスト教宣教師は、東洋世界を新たな布教の地とすることを強く望むようになった。
また、旧約聖書の「創世記」第二章第八節には「主なる神は東方のエデンに楽園を設け、御自ら形作られた人間をそこに置き給うた」という記述があり、キリスト教宣教師たちは「エデンの園」をインドに求める契機となった。
これにより、インドは東方の楽園として、キリスト教宣教師の憧れの地となっていったのである。
ポルトガル国王を保護者とするゴア司教区設置から4年後、1538年にポルトガル国王ジョアン三世にロヨラをはじめとするイエズス会員たちのことが報告されると、国王はポルトガルのローマ教皇庁大使に書簡を送り、イエズス会員10名の中から6名をインドに派遣するようローマ教皇とロヨラが交渉することを命じた。
しかし、開設まもない当時のイエズス会にとって、10名しかいない会員の中から6名をインドに派遣することは大きな負担であった。
そして交渉の結果、1540年3月10日、ポルトガル人のシモン・ロドリゲスとスペイン人のニコラス・ポパディリヤ、パウロ・デ・カメリノの三人がインド布教要員として選ばれた。
しかし、ポパディリヤが病になり、長旅が不可能となったため、代わりにザビエルがインド宣教団に加わることになった。
だが、三名は、インド出発までの10ヶ月を国王ジョアン三世の宮廷で過ごしたが、彼らの諸活動と生活を目にした国王やその周辺の人々は彼らのポルトガル駐在を強く望み、結果としてポルトガルにはシモン・ロドリゲスが残り、リスボンにはイエズス会のコレジオを創設してインド及びポルトガルでの布教に従事する人材を育成し、インドにはザビエルが向かうこととなった。

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