外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊻

しかし、その硝石も1560年代の終わりには、「土硝法」という人工的に硝石を生産する技術が生み出され、実戦に必要な最小限度の硝石を賄うことができるようになった。
これによって、豊後国内でも「土硝法」による硝石の生産が行われるようになり、1570年代には火薬の調合が可能になった。
こうして、豊後をはじめ日本各地では、鉄砲や弾丸、火薬の製造に必要な資材と原材料を自前で調達・供給できるようになっていった。
国内で製造された鉄砲は、実戦で使用され、1549年(天文18)には、薩摩の島津氏が黒川崎の合戦で使用、毛利氏は1557年(弘治3)周防須々万沼城(山口県周南市)への攻撃で使用し、出雲尼子氏や豊後大友氏との戦いでも使用している。
戦国時代に海外から伝来した鉄砲は国産化という段階を経て、1550年前後には、明や朝鮮などに輸出されていた。
明の地理学者鄭若曾(ていじゃくそう)が著した『籌海図編(ちゅうかいずへん)』(1562年成立)には、日本人から鉄砲の製法を学び、そこから馬憲という人物が銃身を製造し、李槐という人物が火薬を調合したことが述べられている。
ここから分かることは、日本から明へは鉄砲に関する生産システムそのものが伝えられていたということである。
日本もポルトガル同様、武器移転を行っていたのである。

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