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不破の関の土塁で守られていた宇喜多秀家の陣

関ケ原での合戦を想定した三成は不破の関北限の土塁460メートルとそこから南北に432メートル続く東限の土塁を宇喜多秀家の陣所の防衛線として利用したものと推定される。豊臣家の大老備前中納言宇喜多秀家は秀吉の養子で、毛利輝元と並ぶ石田方の中心勢...
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古代から残る不破の関の土塁を利用した宇喜多陣

関ケ原の宇喜多秀家陣跡には壮大で強固な防衛ラインが今も残っている。それは、宇喜多陣の前面(南面)を防衛している土塁のラインである。この土塁がすごいのは、基本的には、古代から存在していたものを利用していることである。関ケ原には、奈良時代、東山...
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石田三成が用意した城塞

立地から見れば、玉の城山に築かれたこの城は関ヶ原合戦に関係した石田三成方の城郭遺構であるように思われるが、徳川軍との間で攻防戦が繰り広げられたような記録や言い伝えなどは一切ないことから、この城は当時も使われずに、そのまま放置された形で今日ま...
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玉の城山は一気に築かれた陣城

玉の城山は、かつて太平洋戦争時代、高射砲が運び込まれるにあたって、城内への道が広げられたり、破壊されたようである。そのため、かつてはあったと思われる大手の虎口も破壊されてしまったようで、今ははっきりしない。大手虎口と思われる場所は今も一部堀...
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関ケ原に残るもう一つの陣城

(玉の城山遠景)関ケ原には、松尾山城の他にもう一つ新たに築かれたと思われる陣城の遺構がある。それは、関ケ原の西、「玉」の集落から2キロ半ほど東の奥に入ったところに地元で「玉の城山」と呼ばれる標高307.5メートルの山上に築かれている城である...
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小早川・脇坂は運命共同体

14日以前に井伊、本多に起請文を出し、東軍に付くことを決めていた小早川の重臣たちが彼らから事前に脇坂のことを伝えられていたとしたら、松尾山こそは山上の小早川勢と山麓の脇坂勢の両者が一体となって動くことができる唯一の場所であった。先にも述べた...
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一体化していた松尾山と山麓脇坂陣

関ケ原合戦の前日14日に松尾山に小早川軍が入ったことで、脇坂の立ち位置は決まった。そこでは、必然的に脇坂が戦場で背信行為を行い、家康方として戦わざるを得ない状況が出来上がってしまったのである。脇坂の陣として伝えられているのは、松尾山の山麓で...
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脇坂安治の迷い

彦坂元正・石川安通連署書状によれば、「筑前中納言殿(小早川秀秋)・わき坂中書(脇坂安治)・小河土佐父子(小川佑忠・佑滋)、此四人御味方申し、うらきり(裏切り)を致し候、則敵敗軍仕り」とあり、小早川、脇坂、小川の裏切りによって関ヶ原での合戦は...
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松尾山城への入城自体が大坂方(三成方)への敵対行為

関ケ原合戦の前日、9月14日、松尾山に布陣している秀秋の重臣平岡頼勝・稲葉正成に宛てて井伊直政・本多忠勝から「家康に忠節すれば、今後ないがしろにすることはなく、上方で二か国の領国を与える」という起請文が出されていることから、平岡頼勝・稲葉正...
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8月末の小早川秀秋の動向

この8月28日時点においては、小早川はまだ徳川方につくとのはっきりした意思をもっていなかった可能性は高い。伏見城攻めにおいて、小早川は伏見城に近い醍醐寺に唯一禁制を出していることから、彼が主将格の一人であったことは間違いない。(『小早川秀秋...