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上杉の謀反とは?

家康は慶長五年(一六〇〇)四月に伊奈昭綱らを景勝のもとに派遣し弁明のためその上洛を求めたが、景勝はこれに応じようとはしなかった。家康は上杉家の宰相として景勝の信頼厚い直江兼続に宛て、兼続と親交の深い豊光寺承兌に書状を持たせてその真意を探ろう...
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上杉景勝の帰国

慶長四年八月、上杉景勝は新たな領国会津の仕置きを完全にするため、家康の許可を得て、伏見を立って会津に帰っていった。そこでは国内の城の整備配置や新たな家臣の獲得、道路や橋の整備などやらなければならない課題が山積していた。景勝は伏見に滞在してい...
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東海道を確保した家康

7月24日、家康は、家康は下野小山に到着すると、翌25日軍議を開き、今度の上方での異変は石田三成らが幼君秀頼を利用して起こしたもので、自らの秀頼に対する忠節は変わってはいない、さらに、今は奸臣三成らを討つことが豊臣家への御為であるとの大義名...
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上杉攻めの中止

7月21日、家康はそんな上方の動きが気になりながらも、江戸を出発し会津に向かった。同日、三成は信州上田の真田昌幸に状況を知らせる第一報を送った。三成にとって、真田の存在がいかに重要であったかを示している。翌22日、今や家康方の拠点となった伏...
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手際の良すぎる毛利輝元の大坂入城

そんな情勢の中、18日、石田三成は内々に豊国社への参詣を行っている。(『時慶記』)ここに、三成が京都に来ていたことが分かる。この日、大坂方は細川忠興の父幽斎の籠る丹後田辺城に軍勢を差し向けた。19日、毛利輝元は大坂に到着し、直ちに大坂城西の...
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豊臣家三奉行の豹変

6月25日、三奉行は東下する上杉討伐の軍勢に対して、兵糧、馬飼料の給付を証明する連署状を発した。これは、上杉征伐が豊臣政権の意思であることを何よりも示している。この上杉征伐に、諸大名が家康に従うのは当然のことであった。彼らの出陣は公儀の命に...
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豊臣政権公認となった上杉征伐

家康によって政権中枢部から遠ざけられた石田三成は、それ以降、表面上は居城佐和山城で隠遁生活を送っていた。三成は嫡男の隼人正重家を家康に出仕させ、家康はやがて重家に奉行職を継がせることを言明するなど両者は表面上良好な関係を保っていた。しかし、...
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上杉攻め前夜

慶長4年(1599)閏3月、石田三成襲撃事件が福島正則、黒田長政、浅野幸長ら豊臣系の大名七将によって引き起こされた。この事件は、秀吉亡き後の豊臣政権内に衝撃を走らせた。彼ら七将は日頃から、朝鮮出兵での論功行賞などをはじめとする三成の措置に大...
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徳川VS上杉の戦いはパフォーマンスか?

ステイホームに徹する毎日ですが、家にいても何か少しでも楽しめるものがあればいいですね。私などは、お城のペーパークラフトを作ったりしていますが、元来が不器用のため、不格好なお城しかできず、完成品を遠くから見るようにして楽しんでおります。さて、...
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小西行長の逃走路

関ケ原での戦は、彦坂元正・石川安通連署書状に「筑前中納言殿(小早川秀秋)・わき坂中書(脇坂安治)・小河土佐父子(小川佑忠・佑滋)、此四人御味方申し、うらきり(裏切り)を致し候、則敵敗軍仕り」とあるように、小早川、脇坂、小川の裏切りによって一...