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義経の戦いー飢餓と疫病の時代①

壇ノ浦 本州の最南端下関と九州の玄関門司との間にある「関門海峡」。その最狭部は「壇ノ浦」と呼ばれ、その幅は約六五〇メートル。川幅に等しい狭さでしかない。 だが、この壇ノ浦は今も海が「ごうごう」と音を立てながら激しく流れており、海というよ...
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川中島合戦雑記41(海津城築城構想3)

だが、それらの街道、峠を扼す場所には海津城築城以前にすでに城が設けられていた。 例えば、海津城の東の標高七八一メートルの尼飾山山頂には東条氏の築いた尼飾城が、そこから二百メートルほど下った西北の山に寺尾氏の寺尾城とその支城、金井山城がそび...
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川中島合戦雑記40(海津城の築城構想2)

そんな海津の地に信玄が拠点となる城を築くべく目をつけたのはさすがといわざるを得ない。 しかし、同時に、そこに城を築くにあたってはクリアしなければならないいくつかの課題があった。 というのは、海津の東西南にそびえる山々は確かに敵の侵入を阻...
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川中島合戦雑記39(武田信玄の海津城築城構想①)

海津城は千曲川河畔、現在の長野市松代町に築かれた平城である。 今でこそ、千曲川は城から七〇〇メートルほど北西を流れているが、かつては城に接するように城のすぐ北東を流れていた。 この城は広大な川中島の経営にあたる拠点、政庁として、また、越...
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川中島合戦雑記38(謙信の挑発に乗らなかった信玄)

信玄は謙信から「実の父親を追放し、浪人乞食の身に追いやっている」という非難を受けているが、信玄の父信虎は今川家では客分としての扱いを受けており、特に不自由な生活を強いられてはいなかったようである。 さらに、信玄も今川氏には父を面倒見てもら...
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川中島合戦雑記37(願文で信玄のパワーを奪おうとした謙信)

謙信は、また、川中島の合戦に際して、川中島八幡の更級八幡宮と越後蒲原郡弥彦神社に信玄に対する願文を捧げている。 更級八幡宮へは弘治三年(一五五七)一月二十日に願文を捧げているがそれには「信玄が信州に乱入し、神社仏閣を壊し、国中の人々を悲嘆...
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川中島合戦雑記36(神仏パワーの争奪に勝利した信玄)

信玄は、その後、善光寺のみならず飯綱社や後には戸隠社まで手に入れ、合戦の勝利と武運長久を祈らせてた。 考えてみれば、信玄が家督を継いで最初に行ったことは諏訪の支配であった。 信玄は諏訪氏を攻め、滅亡させると直ちに諏訪大社を支配下におき、...
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川中島合戦雑記35(善光寺そのものを甲斐に移した信玄)

『甲府善光寺建立記』によると、信玄は川中島からの撤退に際して、本尊善光寺如来をはじめ寺内にあった諸仏を持ち去り、はじめ佐久郡禰津村(東部町)に移し、永禄元年(一五五八)甲斐上条村法城寺に移し、それから甲府の仮屋に移し、永禄八年(一五六五)に...
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川中島合戦雑記34(善光寺から戸隠へのルート葛山城を落とした信玄)

信玄がターゲットとした葛山城は善光寺の背後にあって、善光寺から戸隠を経て越後へ通じる街道を押さえる要衝に築かれおり、ここを抜けば、飯綱・戸隠社はもとより、越後への侵入も可能になり、謙信に大きなダメージを与えることは必定であった。 信玄は雪...
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川中島合戦雑記33(善光寺本尊を持ち帰った信玄)

このような状況を見かねた駿河(静岡県)の戦国大名今川義元が両軍の仲介に入り何とか和議を結ぶことで決着がついた。 こうして、閏十月十五日、両軍は川中島から撤退した。 しかし、善光寺を支配する栗田氏が武田方についたことから大きな危機感をおぼえ...
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