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関ケ原前夜「慶長記」を読む14 真田家の判断

真田昌幸の嫡男信幸は家康の重臣本多忠勝の娘を嫁にし、これまで家康配下の武将として仕えてきていた。 そんな背景から、ここにおいて、家康に付くのは当然のように思えた。 しかし、信幸は犬伏で父昌幸、実弟信繁と真田家の今後の行き方を話し合う前に...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む13

関ケ原合戦直前の慶長五年四月、豊後臼杵にオランダ船が漂着し、その乗組員であるウイリアム・アダムスを家康が引見したことは前回述べた。 家康はこのとき豊臣秀頼を擁して大坂城西の丸におり、秀頼の代行として天下の政務をとっていた。 オランダ船「...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む11

慶長五年六月二十日、大坂にいた生駒親正、蜂須賀至鎮、滝川雄利らの大名、前田玄以、長束正家らの奉行から石田三成・大谷刑部が兵を挙げたとの噂を告げる書状が次々と江戸の家康のもとに届けられた。 しかし、中には噂は収まったとの内容もあり、確かな情...
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二月度のNHK学園歴史講座

今月のNHK学園歴史講座は、先月に引き続き関ヶ原合戦前夜「慶長記」を読むと題して「慶長記」を皆で読みながら関ヶ原直前の家康の考えや動き、様子などについて学びました。 「慶長記」は作者が後で思い起こして書いた内容も多いためか、断片的でよく分...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む10

六月十八日、家康は夜にもかかわらず、石部を発った。 家康の行動はすばやかった。 「こうじふくろ」という所に本多忠勝が留まり、人は通すが馬上の武士は止めて警戒した。 服部半蔵は鉄砲頭として七名を率い、鉄砲の火縄に火をつけ、本多忠勝は騎馬...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む9

伏見城で家康は城将の鳥居元忠と対面した。 伏見城は豊臣家の京都での拠点となる城郭であったが、家康はそれを完全に私城としていた。 家康の敵はいずれ伏見城奪還に動き出すことであろう。 そのときは、鳥居らが籠城して敵を防がねばならない。 ...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む8

家康はついに会津の上杉討伐に踏み切った。 増田、長束、前田の三奉行は時期を先に延ばすよう進言したが、家康は耳を貸そうとはしなかった。 家康は諸大名に上杉討伐を通告し、主に東海道筋に所領を持つ大名が動員された。 これに加え、細川忠興、黒...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む7

しかし、上杉景勝は家康の再三の要請にも上洛しようとはしなかった。 上杉はあくまでも謀反の噂を流した相手と対決し、真偽を明らかにするのが筋だというのである。 上杉家の宰相直江兼続はそれを書状にして家康に送り、筋の通らない上洛などしないと言...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む6

このころ「北國陣」の噂がしきりに流れていた。 「北國陣」というのは、越中加賀の中納言、前田利長征伐のことである。 家康は前田家に謀反ありとして、越中出陣を匂わせていた。 前田利長は父利家の意志を継いで、秀頼を守り、家康に対抗しようとし...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む5

家康襲撃の情報を伝えてきた奉行の増田長盛は、とりあえず大坂での家康の御座所を自分の屋敷とし、二日後には大坂城中の石田正澄の屋敷を当てがった。 石田正澄は三成の実兄で堺奉行をつとめていたが、正純は堺へと移っていった。 こうやって家康は秀頼...
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