ブログ

ブログ

三つの史料からみた小田原合戦 合戦の経緯④

家康はすぐに北条家に起請文を送り、「今月中に兄弟衆を京都に遣わして、秀吉にお礼を申し上げること」「秀吉に出仕することに納得できないのなら、家康の娘(氏直正室督姫)を返していただきたい」と申し送った。 この起請文を見た北条家は、秀吉に臣従す...
ブログ

三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経緯③

天正15年(1587)北条氏は正月から小田原城の普請を始めたが、翌16年の春にかけて、上野の松井田城、箕輪城、金山城、厩橋城、武蔵の岩付城、八王子城、檜原城、下総の栗橋城、相模の足柄山城、伊豆箱根の山中城などの領内の主要な拠点城郭の普請を行...
ブログ

三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯②

家康も今や関白になり、天下人の道を歩み始めた秀吉を相手に戦うことには大きなデメリットを感じていた。 そこで、秀吉との和睦に応じることにしたが、家康はその前に東海道の沼津で北条氏政との会談を行った。 そこで両者は互いに多大の贈り物をし、互...
ブログ

三つの史料から見る小田原合戦 小田原合戦の経緯①

小牧・長久手の戦い終了時、天正13年(1585)四月から六月にかけて、家康は北条との同盟関係をより確かにするために、真田昌幸に沼田の地を北条に譲渡させるよう甲斐に向かった。 家康はそれを北条家に伝え、北条家は沼田を受け取るために、上野の新...
ブログ

気候変動と戦国時代④ 領民が支持した信玄のクーデター

平山優氏は『川中島の戦い』の中で、この信虎追放の年は過去百年にも前例がないほどの飢饉が全国的に発生しており、これが背景となっていたとする。 氏によれば「連年の見返りなき出兵に疲弊した武士階級や民衆は、天文十年(一五四一)の大飢饉で深刻な生...
ブログ

気候変動と戦国時代③ 武田信玄 父信虎を追放す

甲斐では永正元年(一五〇四)に「飢饉」(『高白斎記』)、永正二年(一五〇五)「疫病」(『塩山向岳禅庵小年代記』)永正七年(一五一〇)「大地震」(『高白斎記』)という災害が絶え間なく起こっていたが、信玄の父信虎はそれでも、その後、国内の有力領...
ブログ

気候変動と戦国時代② 飢餓・疫病に満ちた甲斐の国

 気候変動という視点から、武田信玄の領国甲斐の様相をみてみると、今まで我々が想像もしなかった事態が信玄の時代に発生していたことが分かる。  戦国時代の甲斐では、藤木氏や峰岸氏の指摘通り、飢饉・疫病が間断なく続き、それは領民の生活を直撃して...
ブログ

気候変動と戦国時代① 異常気候に見舞われた戦国時代

 戦国時代といえば、これまで、群雄割拠の時代、つまり長期化した内乱、応仁の乱で中央政府ともいうべき足利将軍=室町幕府の弱体化に伴い、各地に勢力を持ち始めた戦国大名たちが競って天下を争った時代であるとされてきた。 そこでは、力のある者が上位...
ブログ

『川角太閤記』巻2を読む 賤ケ岳の合戦始まる

秀吉は賤ケ岳へと馬を早められたが、道々在々の庄屋・大百姓たちを召し寄せて、「蔵を開き、めしを炊かせよ。馬のはみを粟ぬかにせよ。先手先手に持っている嗜みの米を出し、焼かせよ。米の算用は百姓たち、自分の米ならば十数倍にして後で取らせよう。急げ急...
ブログ

『川角太閤記』巻2を読む 秀吉、賤ケ岳へ

越前に遣わしていた目付が帰り、「峠の雪はもはや積もりました。馬などの通行ももう難しいと思います」との事である。 「時分は良い」と播磨を打ち立たれることになった。 宇喜多八郎(秀家)を先陣とし、一万五千の兵を率いてはや播磨に詰められた。 ...
タイトルとURLをコピーしました