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石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の捕縛

『慶長記』 「石田治部少輔・小西摂津守・安国寺三人首金をはめ、乗り物に乗せ、柴田左近・松平淡路守奉行手前の者ばかりにて外に人は仰せ付けられず候」 「備前中納言殿生死しれず。田中筑後守(吉政)・西尾豊後守(光教)に仰せ付けられ、伊吹山...
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家康重臣伊奈図書の切腹

『関ヶ原御一戦記』 十九日家康、大津着陣。京に関東勢が洛中に乱入するという噂が流れているので、皆が迷惑しているという報告が入り、家康は伊奈図書を三条の橋へ遣わせ、矢来・木戸を作らせ、番所に兵士を置き、洛中へ入り込む者どもを改めさせた。 ...
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大津城総攻撃

『慶長記』 「大津の城へ渡御、城中家共は、敵攻め火矢の用心に、屋根をまくっていたので、南の門脇の長屋に御座成られた。・・・大津の町は焼き払われ、小屋もなし、苅田を諸人が行ったので、瀬田の近辺より、三井寺辺りまで田を刈り取り、この節は諸大名...
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近江佐和山城攻め②

『脇坂伝記』 「江州佐和山の城には三成の舎兄石田杢頭(正澄)という者が立て籠もっており、それを追伐するよう命令が下され、その日、柏原の宿に陣を取る。開けて16日に佐和山の城へ押し寄せた。十七日、脇坂父子は城の南大手の口より押し入り、攻めた...
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近江佐和山城攻め①

家康は関ヶ原合戦が終わると、大谷刑部の陣所に宿泊し、翌16日、関ヶ原を発ったが、破壊された八幡神社修復費として三千貫文を与え、領主竹中重門に対し、戦死した兵たちのために首塚を作り、神社の再建、その地の住民の鎮撫を命じた。 その日、大垣城二...
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歴史講演会のお知らせ

第17回 連続歴史講演会 滝山城 続日本100名城 選定5周年記念 「戦国から近世~馬出から何が見えるか~」 講師 三 池 純 正(戦国史研究家・NHK学園オープンスクール講師) 「滝山城からくり探索~馬出の妙技~」 講師 中 田 ...
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関ケ原合戦翌日の風景

首実験 『慶長軍記』 「合戦終わって、家康公は甲冑を付け、藤川台に床几にお座りになった。諸将参上し、種々の働きを申し上げる。福島正則曰く、本多忠勝人数扱い、・・・存外の外弱敵に候。そのとき、松平忠吉、直政の手を肩にかけ参上した。家康公は...
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関ケ原、島津隊の敵前逃走

九月十五日、関ヶ原での勝利が決まったころ、戦場から大坂方と思われる兵の一団が徳川軍の中を突破して戦場を離脱しようとする事件が起きていた。 彼らは、幟や旗指物を捨て、徳川軍と同化して、ひたすら進んでいった。 『吉川家什書』 「島津な...
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関ケ原での裏切り

『吉川家什書』 「昨日十五日、内府様、直に山中へ押し寄せられ、合戦に及び、即時討ち果たされ候。昨日、江州に至り、二手に分かれて乱入なされ候。(中略)青野原に至り、悉く先陣衆打出、最前陣所へは内府入り移るべく候。然るところ、筑中(小早川秀秋...
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関ケ原合戦直後の家康

家康は、慶長五年(1600)九月十五日、大坂方と美濃関ヶ原において戦い勝利したが、それは第一ラウンドでの勝利にしか過ぎなかった。 関ヶ原から中山道を進み大坂に向かうには、途中、大坂方の一大拠点近江佐和山城が前に立ちはだかり、大坂城にはいま...
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