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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑬

日本はゴアから約1500キロ以上離れており、多くの嵐や浅瀬や海賊の危険にさらされていることは周知で、船主たちは二隻のうち一隻が日本に着けばよいと思っているが、自分(ザビエル)はどうしても諦めきれないと述べている。1549年1月の書簡で、ザビ...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑫

アンジロウ(弥次郎)は知識欲が旺盛で、理解力も早かった。ザビエルはそこに日本人の優秀さを見たという。ザビエルはこれまで、アフリカやインド、香料諸島の現地住民に会ってきたが、ザビエルの印章では、彼らは教養もなく、それに比べて日本人はずっと優秀...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑪

ザビエルは1540年3月15日にローマを離れ、1542年5月6日インドのゴアに着いたが、そこまでは過酷な船旅であったようだ。ザビエルは、手紙の中で「全世界の富を与えられたとしても、たった一日だけでもこのような苦しい仕事をしたくない」と述べて...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑩

そのころパリからローマに来ていた熱心なグループがいた。彼らは、1538年の4月にローマに着くと、教皇への奉仕を申し出た。教皇は、彼らをイエズス会として承認すべく思案していたが、そのとき、ジョアン三世の使者がローマを訪れた。教皇はさっそくジョ...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑨

フランシスコ・ザビエルはポルトガル王ジョアン三世の命により1541年4月7日にリスボンを出発してインドに向かった。しかし、当初、日本に来る目的はなかった。マルコポーロの『東方見聞録』により、日本の存在は知ってはいたものの、当時日本の位置を示...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑧

肥前の龍造寺氏が大村領や島原の有馬領に進出する勢いを見せると、大村純忠は軍資金や武器を宣教師からの供給に頼らざるを得なくなった。もはや、自力で龍造寺氏に立ち向かうための財力も武力も大村純忠にはなかったのである。だが、宣教師たちから資金を借り...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑥

ポルトガル人が平戸の次に目を付けたのが、西彼杵(にしそのぎ)半島の先端にある横瀬浦であった。横瀬浦は波も静かで、深さ深く、大型船の来航には適した港であった。この西彼杵(にしそのぎ)半島と大村湾に沿ったところが、大村純忠の領地であった。そこで...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑤

銃などを用いた「教団武器外交」の目的は、有力領主から布教許可を獲得して布教を行い、信者を獲得して教団の地盤固めをすることにあった。それは、日本人にとっては、ただ珍しい南蛮の品々を運んでくる南蛮人でしかなかった。イエズス会はザビエル以来、試行...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代④

ポルトガル国王は、自分の名代となる行政官をインドのゴアに派遣して、東インド領国の統治に専従させた。これがインド総督である。インド総督は東インド領国の最高行政官として、領国の民政や軍政の一切と財政の一部も担当した。総督の中にはインド副王という...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代③

「ローマ教皇勅書」では、アフリカからインドまでの征服、領有、貿易の独占を認め、他国民がポルトガル国王の許可を得ずに、それらの領域に航海することを禁止する、それらの領域の原住民を奴隷にすることを認める、ポルトガル国王に新発見地への布教を奨励す...