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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑧

肥前の龍造寺氏が大村領や島原の有馬領に進出する勢いを見せると、大村純忠は軍資金や武器を宣教師からの供給に頼らざるを得なくなった。 もはや、自力で龍造寺氏に立ち向かうための財力も武力も大村純忠にはなかったのである。 だが、宣教師たちから資...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑥

ポルトガル人が平戸の次に目を付けたのが、西彼杵(にしそのぎ)半島の先端にある横瀬浦であった。 横瀬浦は波も静かで、深さ深く、大型船の来航には適した港であった。 この西彼杵(にしそのぎ)半島と大村湾に沿ったところが、大村純忠の領地であった...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑤

銃などを用いた「教団武器外交」の目的は、有力領主から布教許可を獲得して布教を行い、信者を獲得して教団の地盤固めをすることにあった。 それは、日本人にとっては、ただ珍しい南蛮の品々を運んでくる南蛮人でしかなかった。 イエズス会はザビエル以...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代④

ポルトガル国王は、自分の名代となる行政官をインドのゴアに派遣して、東インド領国の統治に専従させた。 これがインド総督である。インド総督は東インド領国の最高行政官として、領国の民政や軍政の一切と財政の一部も担当した。 総督の中にはインド副...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代③

「ローマ教皇勅書」では、アフリカからインドまでの征服、領有、貿易の独占を認め、他国民がポルトガル国王の許可を得ずに、それらの領域に航海することを禁止する、それらの領域の原住民を奴隷にすることを認める、ポルトガル国王に新発見地への布教を奨励す...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代②

大航海時代、イベリア半島からポルトガルは東に、スペインは西に航路を取って船を進めた。 しかし、地球が球体である以上、両国はやがて同じ大陸や島で鉢合わせする可能性があった。 その場合の土地の領有権と帰属先をどうするのか、それを解決するため...
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外国人宣教師の見た日本の戦国時代①

日本の発見 日本に初めて第一歩を記したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは1545年9月末にマラッカに到着したが、そこで、ポルトガル商人から、最近発見されたという「大きな島」の話を聞いた。 それが日本であった。 それまで、ヨーロッ...
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10・30講演会より 最後に

以上、見てきたように、武田氏は丸馬出を配した城を侵略地に数多く築き、敵を追い詰めていった。 丸馬出は武田氏の城の大きな特徴であると同時に、そこには武田氏ならではの独自の戦い方が凝縮されていた。 また、丸馬出を持った城は、それ自体が武田の...
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10・30講演会より 豊臣包囲網の城④

近江を通る中山道を警戒し、有事には水運を使って京・大坂に駆け付けられる彦根に、石田三成の佐和山城を廃して彦根城を築いた。いずれの城も、馬出等を効果的に配し、戦う城となっているのが特徴である。 これらはほんの一部であるが、家康はこうして大坂...
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10・30講演会より 豊臣包囲網の城③

さらに、家康は山陽道を扼する要の城として傑出した防御力をもった姫路城を築かせ、山陰道を扼する城として丹波篠山城新たにを築かせた。 以下は丹波篠山城の図である。 この篠山城は、すべての虎口に角馬出を配することで戦闘力・防御力...
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