外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑤

銃などを用いた「教団武器外交」の目的は、有力領主から布教許可を獲得して布教を行い、信者を獲得して教団の地盤固めをすることにあった。
それは、日本人にとっては、ただ珍しい南蛮の品々を運んでくる南蛮人でしかなかった。
イエズス会はザビエル以来、試行錯誤を重ねながらも、1570年(元亀元年)までには、3万の日本人が改宗し、九州から畿内までの西日本を中心におよそ400の教会が開設されている。
また、イエズス会士も1565年(永禄八年)では12人に過ぎなかったが、1576年(天正4)には、22人、1579年(天正7)には55人に増えた。
しかし、在地領主の間で繰り広げられた戦争と、その惨禍への危機感が、教団の軍事活動を本格化させ、イエズス会士は「神の使者」から「死の商人」へと変貌させていった。

宣教師たちは、キリスト教を保護し、歓迎してくれる領主の港にポルトガル船を入れた。
つまり、ポルトガル船に来てもらいたいなら、貿易をしてもらいたいなら、キリスト教の布教を認め、協力しなさいということになるのである。
宣教師たちは実際にポルトガル船に乗ってやってきた。
ポルトガル船が入ると、生糸や絹織物を買い付けるために多くの商人が集まり、領主も大きな利益を得ることができた。
それは、富国強兵策を取っていた戦国大名にとって、渡りに船のおいしい話であったが、それには領内での布教を全面的に認めることが条件であった。
ここにおいて、戦国大名たちは大きな選択を迫られた。
例えば、鹿児島の島津貴久は、ポルトガル船の来航は歓迎したが、仏教側の反発の強いキリスト教の布教には反対で、それよってポルトガル船が鹿児島に来ることはなかった。

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