外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑥

ポルトガル人が平戸の次に目を付けたのが、西彼杵(にしそのぎ)半島の先端にある横瀬浦であった。
横瀬浦は波も静かで、深さ深く、大型船の来航には適した港であった。
この西彼杵(にしそのぎ)半島と大村湾に沿ったところが、大村純忠の領地であった。
そこで、ポルトガル人は、大村に行き、横瀬浦の開港とキリスト教の布教を認めてもらうよう領主大村純忠と交渉した。
純忠はこの提案を受け入れ、キリスト教の歓迎とポルトガル船の来航を望んだ。
こうして、1562年から、横瀬浦にポルトガル船が入るようになった。
それまでは、つなぎとして平戸の港にポルトガル船が入っていたが、それ以降、平戸に入っていた船すべてが横瀬浦に誘導されるようになり、ついに平戸は見捨てられ、これまで無名の港であった横瀬浦が、貿易港として注目されるようになった。
さらに、その翌年、1563年(永禄6年)、領主の大村純忠は家臣25名とともに洗礼を受け、ポルトガルとの絆をいっそう強めようとした。
これを喜んだ当時港に入っていたポルトガル船の司令官から大きな祝福を受けた。

だが、横瀬浦の繁栄は長くは続かなかった。
それを快く思わない平戸の松浦隆信らが、横瀬浦を襲撃して焼き払ってしまったからである。

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