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松平忠明により改修された作手亀山城

奥平氏の居城亀山城は、古宮城の南東約二・五キロのところにある。 関ヶ原合戦後の慶長七年(一六〇二)長篠城主奥平信昌(貞能の子)の子、松平忠明が再びここに入り改修したことから、城は一部近世化しているが、基本的な縄張りは武田氏時代のものを踏襲...
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作手村城塞群亀山城縄張図(『戦国武田の城』洋泉社より)

以下の縄張り図は作手村に残る奥平氏の居城亀山城です。 かつては、奥平氏の居城であったものが武田氏によって手を加えられ、武田氏の城となっていましたが、長篠の戦い後、徳川方となって、再び作手に戻ってきた奥平氏は亀山城を再び改修したようです。 ...
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作手村城塞群 賽の神城

古宮城から街道を挟んだ西の比高一〇〇メートルほどの山上に築かれているのが賽神城である。 古宮城は作手における武田軍の本陣という位置付けをもっており、この城を眼下に見下ろす賽神城からは古宮城が丸見えになってしまうという弱点をかかえている。 ...
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古宮城のリス

私が古宮城の大きな内桝形虎口の前で、何気なく上を見上げると、古い巨木の上部から一匹のリスが大きな目をこらしてじっとこちらを見ていた。恐らく、当時は滅多に人など来ないところであったのだろう。 そこに突然、二人も人がやってきて大きな声で話し始...
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作手村城塞群主要縄張図(『戦国武田の城』洋泉社より)

上から「古宮城」「賽の神城」「文珠山城」の縄張図です。 これだけの優れた縄張りを持った城が、作手村という狭い地域に集中して築かれています。 全国的にみても、このような場所は珍しいのではないでしょうか。
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武田流築城術を色濃く伝える作手村城塞群

作手村の中で最も色濃く武田氏の築城を伝えているのは何といっても古宮城である。 古宮城は奥平氏の居城亀山城の北、国道三〇一号線沿いにあるこんもりとした比高二十五メートルほどの小山に築かれた城で、南北二〇〇メートル、東西二五〇メートルの堂々た...
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徳川一門並となった奥平氏

『当代記』の天正元年八月の項によれば、奥平貞能は脱出するにあたって、早朝、密かに家中の者を集め、家康はそこに援軍を送り、無事に作手を脱出したようである。 この奥平貞能はその後家康から長篠城を任され、天正三年(一五七五)、勝頼の猛攻に耐え、...
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武田を捨て、徳川に付いた作手亀山城主奥平氏

天正三年(一五七四)四月、勝頼率いる武田軍は再び三河へ侵攻し、三河野田城(新城市)を攻め、二連木城を開城させ、徳川家康の三河支配の拠点であった吉田城(豊橋市)まで兵を進めた。 これに対して、家康は自ら出陣をしてきたが、武田軍を突破できず...
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作手を兵站基地とした武田氏

 『当代記』の同年四月の項には、「長篠在番中、作手へも人数をやり普請」とあり、八月の項には「作手城には信州衆を在番させ」「作手城に後詰めのため、土屋右衛門をはじめ三千余り、相移る」との記述がある。  ここから、信玄の三河侵攻にあたって、作...
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作手奥平氏の苦悩

元亀元年(一五七〇)七月、信玄の重臣秋山信友は三河に侵攻し、作手奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏、いわゆる山家三方衆を降伏させた。 ただ、その中にあって作手奥平氏は武田氏に最後まで抵抗したという。 これには、武田に人質を送りそれに従おうとする...
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