作手奥平氏

この作手の地はもともとは三河奥平氏の本拠地であり、奥平氏は初めは作手の川尻城を本拠としていたが、後に亀山城を築いてそこに移り、居城としていた。
また、そこにあった他の城ももとは奥平氏に関係したものであったのだろう。
しかし、そのどれもが武田氏による改修がなされたと思われることから、ある時期から奥平氏は武田氏に完全に屈服し、そこにあった城は改修を受けたばかりか、この地は織田信長・徳川家康に対する武田氏の前線基地となったことが推察される。
武田氏と奥平氏は元亀三年(一五七二)の武田軍の三河侵攻のずっと以前から接触していたと思われ、信玄自身はまだ川中島で謙信と戦っている弘治二年(一五五六)の冬、奥三河にすでに出陣し(「戦国大名武田氏の奥三河経略と奥平氏」)、永禄十二年(一五六九)からは奥平氏と接触していたという。
これより以前、奥平氏は家康より所領を与えられ、家康に従属していたが、元亀元年(一五七〇)ころからそれと対立する武田信玄による三河侵攻が本格的に始まると、徳川から武田に寝返ったのであった。

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