作手を兵站基地とした武田氏

 『当代記』の同年四月の項には、「長篠在番中、作手へも人数をやり普請」とあり、八月の項には「作手城には信州衆を在番させ」「作手城に後詰めのため、土屋右衛門をはじめ三千余り、相移る」との記述がある。
 ここから、信玄の三河侵攻にあたって、作手の地が武田軍の手によって兵站基地化されていたことが分かる。
奥平氏にとっては、自らの本拠地が武田軍の兵站基地とされてしまったのである。
 それは、言葉を変えると、奥平氏は武田軍の兵士によって二十四時間監視されることを意味する。
 もう、事実上、徳川氏に寝返ることは不可能となった。
『当代記』にいう「作手城」が作手のどの城を指すかは分からないが、規模からいっても古宮城か亀山城、もしくはその周辺の賽神城、文珠山城を含めたすべてを指しているのではなかろうか。
信玄は志半ばで亡くなったが、その後を継いだ勝頼は信玄の意思を継いで、遠江・三河への侵攻を果敢に続けていった。

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