作手奥平氏の苦悩

元亀元年(一五七〇)七月、信玄の重臣秋山信友は三河に侵攻し、作手奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏、いわゆる山家三方衆を降伏させた。
ただ、その中にあって作手奥平氏は武田氏に最後まで抵抗したという。
これには、武田に人質を送りそれに従おうとする当主奥平貞勝とそれに反対する嫡男貞能との対立があった。
当時、奥平氏の領地作手は家康の領国との境目にあったことから、信玄・家康両者の抗争には常に巻き込まれる運命にあった。
そこでは常にどちらかに従属するしか生き残る道はなかった。
まさに境目の領主の悲しさであった。
そしてついに、元亀三年(一五七二)の武田軍の三河侵攻が本格的に開始されると、奥平氏は山家三方衆として先鋒をつとめ道案内をさせられることになった。
信玄は元亀三年十月に三方ヶ原で徳川軍を破るなど、破竹の勢いで進んで行ったが、翌元亀四年(一五七三)四月にその途半ばで亡くなってしまうことになる。

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