武田軍の一大駐屯基地作手村

斎藤さんは、我々を部屋に案内すると、待っていたように、さっそく、彩色鮮やかな城の古図を見せてくれた。
斎藤さんは、作手村にあるいくつかの城が「浅野文庫諸国古城之図」に収められていることを知り、その実物を見るために広島まで出かけていき、撮影許可を得て、それを持ち帰ったばかりだというのである。
先に述べたように『浅野文庫諸国古城之図』が作成されたのは今から約二五〇年前の広島藩第七代藩主浅野重晟(しげあきら)の時代といわれ、そこには、軍学者自らが現地へ行って調査したと思われる全国各地の戦国期の城跡の縄張図一七七枚が収録されている。
その中に、作手村がわざわざ一枚の図面として取り上げられたことの意味は大きい。
我々は運よくそれを見せてもらえる機会に遭遇し、それだけでも、作手村まで来た甲斐があった。
「諸国古城之図」では作手村全体が一枚の図になっており、そこにいくつかの城が小さく描かれている。それは、この「諸国古城之図」の作者が作手村自体を一つのまとまった城塞群であるとの認識をしていたからであろう。
この古図には古宮城の他にいくつかの城が描かれているが、斎藤氏によればそれらは亀山城、賽神城、文珠山城だという。
ただ、一見して、それらはどれも特異な特徴をもっていた。
それは、どの城も「馬出し」という優れた構えをもっているのである。
つまり、それらは、元の縄張りに高度な築城技術を施され、生まれ変わった城となっていたのであった。
これは驚きであった。
そこでは、古宮城と同様に武田氏がそれらを改修していたことが推察された。
つまり、作手村は武田氏によって改修された城が至近距離に集中する武田軍の一大駐屯地、基地であった可能性が出てきたのである。

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