徳川一門並となった奥平氏

『当代記』の天正元年八月の項によれば、奥平貞能は脱出するにあたって、早朝、密かに家中の者を集め、家康はそこに援軍を送り、無事に作手を脱出したようである。
この奥平貞能はその後家康から長篠城を任され、天正三年(一五七五)、勝頼の猛攻に耐え、城を死守し、それが設楽ヶ原での合戦(長篠の合戦)の大勝利につながったことは周知の事実である。
奥平氏はこの功績を家康から高く評価され、貞能の子、信昌は家康の娘婿となり、徳川一門並となった。
貞能の必死の努力はここに実を結んだのであった。
ちなみに、元亀三年から元亀四年にかけての信玄の三河侵攻は、上洛に伴うものなのか、あるいは領地を接することになった家康と戦うためだけの局地戦かということで、研究者の意見は分かれているが、柴辻俊六氏は元亀二年と推定される松永久秀の家臣宛ての信玄書状に「令上洛」とあることから、「全体の戦略がすでに元亀二年段階から上洛にあった」としている。(「武田信玄の上洛戦略と織田信長」)
上洛を急ぐ信玄、そしてその跡を継承し、遠江侵攻に意欲を燃やす勝頼にとって作手はその足がかりとなる重要な場所であった。

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