関山合戦②

関山の上で資重と備中は計略を練った。
夜が明け、九月十五日の朝になると、奥州勢が押し寄せてきた。
先手は馬に乗り、我先にと登ってきたが、資重が下知したのは例え敵が幾千登ってこようとも、下知なくしては鉄砲も矢も撃ってはいけないということであった。
この時期、山頂にある関山観音堂と満願寺の修復のために木材と大石が傍らに積んであったので、所々に寄せて、山上で息をひそめて待ち、奥州勢が山上近くまで登ってきたところを見て下知し材木や大石を落とし、敵がひるむところを鉄砲で激しく撃ちかけた。
関山の登道は傾斜もきつく、姿を隠す木立ちもないので、材木・大石に当たったり、鉄砲に撃たれて死ぬ者が数知れなかった。
資重は坂を登ってくる敵を追い落とし、山下に追い返したが、そこには伊王野資信が控えており、敵に真一文字に攻めかかり、弟の直清らも真っ先に敵に突っ込んでいった。
そのとき、資重は敵の真ん中に攻めかかり、横筋を突いて馬を乗り入れ、馬上で刀を振るい、敵を斬って落とした。(中略)
討取った敵の首は百七十三、味方も雑兵など三十九名が討ち死にした。
未明より巳の刻(午前一〇時から一二時)までの合戦で大勝利を得、資重は疵を二ヶ所に蒙り、他の者も疵を被った者が多かった。
大関資晴、大田原晴清はこのことを聞いて援軍を出そうとしたが、午の刻(午後一二から二時)前に奥州勢は皆兵を退いたので、伊王野から使いを出し、これにより馬を納めた。(後略)
以上が『継志集』に描かれている「関山合戦」の概略である。
しかし、この事件は事実であったのだろうか?
何より、家康の命を無視して伊王野氏は上杉領に兵を出したのであろうか?

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