10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻②

信玄は重臣で飯富兵部の実弟山縣昌景からの情報で義信の造反をいち早く察知すると、義信を甲斐東光寺に幽閉、義信に付いた家臣たちを処罰することで、事件を未然に防ぎ、義信の妻を今川に送り返し、同盟の破棄を通告した。
義信は失意の内に幽閉生活を送り、二年後に自害。
ここに武田家は後継者を失い、諏訪家を継いで信州諏訪地方を治めることになっていた諏訪四郎勝頼が武田勝頼として、信玄ンの後継者となることになった。

信玄は駿河・遠江への侵攻を開始するにあたって、永禄11年(1568)当面の敵となることが予想された徳川家康と同盟を結ぶことから始めた。
家康の領国は三河であり、当面は駿河と三河の間にある遠江への侵略を企てていた。
そこで、両者は、領地は切り取り次第という、ある面曖昧な内容で同盟を結ぶことにした。
この同盟では、家康の重臣で三河吉田城主の酒井忠次の娘が人質となって信玄のもとへ行っていることから、家康は信玄から格下の扱いを受けていることが分かる。
事実、信玄は家康を「松平蔵人」と呼び、「徳川家康」とは呼んでいない。
信玄は、家康を小国三河の領主で織田信長配下の一武将と認識していた。
しかし、家康は戦国の名将武田信玄を敵に回しても遠江だけは領地にするという堅い意志をもっていた。
そして、徳川・武田同盟の仲介をになったのは織田信長であった。

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