「関山合戦」①

関山合戦の舞台となった福島県白河市は栃木県と福島県の県境の町であり、そこには有名な白河の関がある。
それを見下ろす関山という標高六一九メートルの山頂には満願寺という天平二年(七三〇)聖武天皇の勅使により行基が創立したと伝わる古い寺院がある。
しかし、前回見たようにこの関山は、単なる山頂に古い寺院がある山ではなく、城郭である。
それも上杉氏が手を入れたのではなく、もともと領民たちが有事には逃げ込んだり、敵と戦ったりするためのものであったようである。
この関山合戦は唯一、那須地方の記録『継志集』に詳細に記されている。
それは以下の通りである。(原文を一部省略して意訳)
慶長五年(一六〇〇)九月十四日、上杉勢が伊王野口へ向かうため、その先手が関山に登っているとの急報が入った。
そこで、伊王野城主伊王野資信は一門・家臣たちとこのまま城に籠城して加勢を待つかどうかを評議した。
すると、資信の嫡子資重が「今度奥州口の押えの一手を承りましたので、このまま城に籠っていれば、敵は今晩もしくは明朝にも押し寄せてくるでありましょう。それに馳せ向かって快く討ち死にいたしましょう。先手は私が承りましょう。」と言ったので、資信はもっともであると同意した。
それに対して、家臣の薄葉備中が「関山(伊王野より三里半の行程)を敵よりこちらの手に奪ってはどうでしょうか。それには今夜中に関山に向かってこちらを出発し、敵を不意討ちにして関山を奪うのです。」と言ったので、皆その智謀に感心し、それを実行に移すことになった。
伊王野軍は十四日の夜中に出発し寅の刻(午前四時から六時)に関山に着いた。
関山に登ると霧が深く、夜も明けていないため番をする者も気付かず、そこに薄葉備中が斬ってかかった。
番兵は驚いて散り散りになったが、そこに攻撃をかけて数十人を討取り、備中が旗を立てているところへ、やっと伊王野資重が登ってきたので、備中がそれを迎えると、手間をかけずに関山を占拠できたのは備中の手柄であると資重が喜んだ。
関山の上で資重と備中は計略を練った。

次回に続く

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