上杉氏による改修が見られない関山

(関山遠望)
以上は、先に述べた白河の関を見下ろす関山という標高六一九メートルの山を舞台にして行われた合戦の模様を伝えている。
関山の山頂には現在も『継志集』にいう満願寺という天平二年(七三〇)に建立された古い寺院の跡がある。
ただ、関山を実際に訪れてみると、関山には山頂や尾根に郭や堀切が存在し、そこが城跡であることが分かる。
つまり、関山は山自体が信仰の対象であると同時に合戦時は麓にある村々の村人が立て籠もる村の城であった可能性が高いのである。
村の城というのは、村人が自らの自衛のために築いた城のことであり、関山の城は古い形態を伝え、領主上杉氏によって改修された跡がほとんど見られない。
そこでは複雑な縄張りなどは施されておらず、堀切と郭の城壁(切岸)だけで敵を防ぐという簡単な構造となっている。
普通に考えれば、上杉氏にとって、街道を見下ろす位置的に重要なこの山を強力に城郭化して敵に備えることが必要だと思われるのだが、上杉氏にはそれをした形跡がない。
上杉氏はなぜこの城を改修しなかったのであろうか?
(山頂の満願寺)
(山頂土塁)

タイトルとURLをコピーしました