境目の緊張

慶長五年(一六〇〇)五月三日、家康は会津・下野国境那須伊王野城主伊王野資信に防御態勢を固めることを指示している。
そのころ、家康はまだ大坂城にあり、上杉討伐に出発したのは六月十六日であることから、家康はかなり早い時期に最前線となる地に臨戦態勢を促していたことが分かる。
伊王野氏は那須氏の血を引く那須一族の一人であり、当時上杉領に最も近く、関東下野から上杉領への街道が抜ける伊王野口に城を構えていた。
家康としては上杉領との境目の領主たちをいち早く掌握しておく必要があった。
彼らがもし上杉側につくようなことがあれば、関東の境目は大きな脅威にさらされることになる。
家康が伊王野氏と早期の接触をはかったのもそのような事情があったからであろう。
伊王野資信はこのとき上杉氏に関する情報を家康に伝えており、資信自身家康方であることを表明してはいたが、今後の情勢次第ではどうなるか分からないのが戦国である。
しかし、境目の事情は上杉氏も同じであった。

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