丹羽五郎左衛門殿が申されたことは、「右に申したごとく、勝家殿は腹を立てられたかもしれないが、上様、京都に於いて切腹なされたそのとき、筑前守は中国備中で大敵の毛利輝元の軍と指し向い、その身の危険を顧みず、播州へ帰城し、三日と休息せずに、即時に京へ上って我らの主君の仇である無道人を討ち果たしたことは天命に叶ったと申すべきである。勝家と筑前守を比べれば、筑前の身上は半分にも及ばず、上様御切腹を勝家が聞いた時、早々に京へ上られたら光秀ごときは二三人ほどは踏みつぶされたであろうが、油断なされたのであろうか」と。
五郎左衛門殿が申されたたので、勝家は理に詰まり、謝られた。
勝家はしばらく考えて、「いやいや善は急げと申す例えを思い出されたのか、筑前守が申し出られた通り、筋目を立てるべき、吉法師様を天下人に仰ぎ奉るべきである。筑前守をここに呼び、談合を終わりましょう」とその儀を定められたということである。(中略)

信長様、お妹婿の浅井長政を成敗なされ、その後、妹お市を内々どこかに嫁がせようとおぼしめされていたところ、三七殿は「柴田に遣わされよう」と仰せられた。
城之助(信忠)様は「筑前に遣わされよう」と仰せ上げられていたところ、朝倉を滅ぼされ、その跡を柴田に遣わされたことで、柴田は大名になられた。
三七殿は「柴田は大名になられたのだから、兄弟の列に加わってもよいでしょう」と仰せ上げられたとき、信長殿は「それは尤もである」と納得され、柴田に遣わされた。
そのような関係で、三七殿を柴田はひいきにしているのである。
(この後、秀吉は職人に命じて吉法師に木馬や鳥などのおもちゃを作らせ、それを与えるなどして懐柔した。その結果、吉法師は秀吉に懐いて、秀吉の膝に乗るようになった。それにより、柴田はじめ諸大名は吉法師の御機嫌伺いに行くと、まるで秀吉に挨拶をしているかのようで不快に思っていた。)
(これが後の事件に発展する・・・・・・)