『五輪書』地の巻に学ぶ②

安倍元総理の事件は、本当に痛々しく悲しい事件でした。
もうこんな事件は二度と起こしてはいけない。
命の重さを、生きていることの素晴らしさを、今日も『五輪書』に求めてみました。

「武士は死ぬ道をたしなむべきである」
どんな人間も死を避けることはできない。
人間とはいつかは死ぬものなのであり、何をやっても、必ず死ぬという事実は変わることがない。
死は怖い。だから、人は、死について考えることを避け、日々の享楽に甘んじようとする。
だが、死が避けられない以上、それを前提に、生きることを考えなければならないのではないだろうか。
それは、いつ死んでもいいように、意味ある生き方をせよ、この世にたった一つしかない命を大切に使えということでもある。
それが、意義ある死につながっていくのである。
生き方はそのまま死に方でもあるのだ。

「生半可な兵法は大疵のもとである。」
これは中途半端なことはやめるという意味もあろうが、自身の力量、限界を知り、やたらに突っ走らないということでもあろう。
人には苦手なこともあれば得意なこともある。
何も苦手なものでわざわざ勝負することはないのである。
宮本武蔵自身、三十歳を過ぎたところで命がけの真剣勝負は一切行ってはいない。
武蔵はそこに自らの体力、気力の限界を見極めていたのかもしれない。
しかし、二十代で名声を博した武蔵にとって、さらなる名声を得ようとの思い、さらにはそれを利用しようとする周囲の誘惑は多かったことであろう。
その中で、その後の一切の試合を放棄することは大変に勇気のいることであったに違いない。
武蔵はこうして極限まで己を律することができたがゆえに剣豪となれたのではなかろうか。
人は過去の自分の実績から現在の自分を過信してついつい以前のように振る舞いがちである。
しかし、時の流れは時代を変え、その中で知らず知らずのうちに自分も変わってしまっている。
そこでは思うようにならない自分を知り愕然としてしまうこともある。
その意味で、退際を知ることもまた兵法の極意なのであろう。
しかし、退くといっても、人生からの引退を意味するものではない。
自分の体力・気力にあったやり方、道を見つけ、そこから再び自分らしい生き方、戦い方を新たに追求していくのである。
人生とは、死ぬまで戦いである。

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