徳川諜報活動の拠点黒羽城

黒羽城には、岡部長盛が甲賀衆百人を、服部保英が伊賀衆百人を率いて入城しており、黒羽城には二百人という大量の忍びが配されていたことになる。
彼らの投入は上杉領の情報収集であろう。
ここから、黒羽城はその諜報活動の拠点であったことが推察される。
『浄光公年譜』によれば、岡部長盛や服部半蔵正成は上杉方の城を見分するために地元那須の者(百姓衆か)を度々遣わしたが、誰も帰って来る者はなかった。そこで、服部正成は自分の配下の伊賀者から三人を選んで上杉領に遣わしたところ、城中の様子を詳しく調べて帰還し、城の広さや険しさ、兵数、武器や玉薬の数までも手に取るように語り、城を攻め落とすのは容易でないことを報告した。
さらに、彼らによると、先に上杉領に送った那須の者は城の大手で磔にされていたという。
当時の諜報活動の一端を示す大変興味深い話である。
上杉領に最初に地元那須の者を送ったのは、境目の村々同士で過去から何らかの交流があり、互いに顔見知りであったことや上杉領への間道を知っていたことなどが考えられよう。
また、そのことから、実際の境目というのは村の力が強かったことをも示しているといえる。
そこでは熟練した忍びといえども境目を突破して敵領に入り込むことはかなり困難であったのだろう。

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