武田軍の反転攻勢

上田ヶ原での信玄敗戦の知らせは瞬く間に信濃中をかけめぐり、信濃の反武田勢力を勢い付かせた。
特に、信玄が制圧していた諏訪、伊那、佐久郡では再び反武田の動きが活発になり、中には武田方の城を攻めるものまで現れた。
「完敗したばかりの武田を今攻めれば信玄はもう二度と立ち上がれなくなる。」彼等にとって今が信玄を倒す千載一遇のチャンスであった。
その反武田勢力の中心となったのが、松本平(松本市)の小笠原長時であった。小笠原氏は代々信濃守護をつとめる名家で、深志城、林城など松本平、筑摩・安曇郡に多くの城を構える信濃の一大勢力であった。
長時は武田軍を破った村上義清らと連絡を取り、反武田同盟を構築するとともに、上田ケ原の合戦から5ヶ月後の天文17年7月、自らも5千の大軍を率い、塩尻峠まで出陣し、信玄の領地である諏訪をうかがう構えに出た。
塩尻峠は諏訪地方と松本平を結ぶ境目の峠である。現在は長野道が出来た関係で塩尻峠を越えずに松本盆地に出ることができるが、かつての国道は、塩尻峠を越えなければ松本には出ることはできなかった。
まさに、塩尻峠は小笠原氏にとって武田の領地諏訪と接する軍事上の要衝であった。そこでは、峠道は狭く、また傾斜もあることから、長時はここに武田軍をおびき寄せることができれば、その殲滅も可能と踏んだ。
塩尻峠は何より小笠原氏の地元でもあり、その地理を知り尽くしているという大きな利点もあった。
さらに、この小笠原氏に呼応して、一度は武田に屈服した諏訪西部の武士たちも反旗を翻す動きに出た。
もし、このまま小笠原氏の蹂躙を許せば、信濃の反武田勢力の火はますます広がり、各地で反乱が起き、やがては武田軍に襲い掛かってくることは必定であった。
信玄にとって上田ヶ原での敗戦のショックは今も重くのしかかっていた。
しかし、ここで再び小笠原氏に敗北してしまったなら、これまで営々と築き上げてきた信濃制圧は崩壊し、何より信玄を信じて上田ヶ原で戦い死んでいった家臣たちの死を無駄にすることになってしまう。それだけは絶対にできなかった。
この絶対に負けられない責任の重さ、それこそが将の宿命であった。
信玄は小笠原出陣の報を聞くと直ちに兵を率いて甲府を出発した。
だが、なぜか、その行軍の速度は遅々として、一週間経ってもまだ甲斐国内にあって諏訪に入ることはなかった。
この遅々とした行軍の意味ははたして何であったのだろうか。
信玄は途中途中で敵の情報を収集し、その対応を常に思索していたのではなかろうか。
だが、小笠原長時はこの信玄の行軍の遅さから、信玄はまだ敗戦の傷を引きずっており、とても反撃ができるほどの力は残されていないと判断した。
そこで、長時は、信玄が諏訪に入るのを待って一気に攻めるべく、兵を休ませ、来るべき一戦に備えさせた。
武田軍が諏訪に入ったのはもう深夜であった。
信玄はそこで小笠原5千の大軍が塩尻峠に集結して今だ動かないという情報をつかんだ。
勝機は今しかなかった。
信玄は諏訪で休むことなく、そのまま塩尻峠に向けて行軍を開始した。そこで信玄が下した命令は全速力での行軍であった。兵士たちは塩尻峠の峰を目指して走りに走った。
武田軍全軍が塩尻峠に到着したのは早朝六時。
小笠原軍の兵士たちはまだ出陣の準備どころか、武具さえもつけてはいなかった。
そこに昨日まで確かに甲斐にいたはずの武田軍が突如目の前に現れたのである。小笠原の兵は我が目を疑いあわてふためくばかりで、応戦などまったくできる状況ではなかった。一度恐怖心を持った兵は、大軍であるほどその混乱も大きかった。彼らはみな武具を投げ捨てて逃げ出すのが精一杯で、戦うどころではなかった。
そこを武田の精鋭部隊が追いかけ攻めに攻めた。
こうして、小笠原軍は戦わずして大敗北を喫してしまった。
そこでは、大将の長時も命からがら逃げ出すのがやっとの有様であった。
武田軍は大勝利し、小笠原の大軍を蹴散らすことに成功した。
そして、その強さを再び信濃の反武田勢力に見せ付けることができたのであった。
勝利とはどんな状況にあっても諦めずに「勝つ」と決めた者のみが手にすることのできる栄冠であった。
だから、信玄はその勝利を得るために誰よりも考え、悩み、苦しみ、そして、命を賭けた。
その信玄の勝利に対する執念は家臣たちに伝染し、彼らに再びの勇気を与えた。
それは、敗戦後の重い空気を瞬く間に吹き飛ばし、奇跡の団結を生み、逆転勝利へとつながったのであった。

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