宣教師の見た戦国日本

九州島と本州島
現代でも中国の研究者は、日本を「九州島」「本州島」と呼ぶという。
大陸から見れば、日本は確かに四つの島から構成される国であることに間違いない。だが、昔から、日本人には日本を独立した四つの島とする意識などはない。というより、島の集まりであった日本は古代より常に一つの国として認識されており、その意味では中国のこの捉え方を日本人は少し奇異に思うかもしれない。
しかし、日本を大きな二つの島の集まりと見ていたのは、大陸の中国だけではなかった。
永禄6年(1563)ころのイエズス会宣教師の書簡には「この日本地方は主たる二つの島から成っており、両者は三分の一里ほど隔たっているであろう。この第一の地域には三人の国主がいる。彼らは実際に国王であり、その第一にして最も有力なものは豊後の国主である。すなわち、10万の兵士を動かすことによる。残る二人は有馬の国主と薩摩の国主であり、薩摩には我らのメストレ・フランシスコ(ザビエル)師が一年間滞在した。」(『イエズス会日本報告集』第三期 第2巻)と記されている。
この彼らの日本、特に九州に対する認識は、その後も変わることはなかった。
秀吉が大陸進出をめざし、朝鮮半島に大量の兵を送り込んでいた1595年(文禄4年)にポルトガルのイエズス会士ルイス・ティセラが作成したとされる日本地図には、本州がIAPONIA、九州全体がBUNNGOと表記され、そこからさらに15年を経、徳川時代に入った1610年(慶長10年)にオランダの地理学者ペトルス・ベルチウスが作成したアジア図にも、九州(BUNNGO)は本州(IAPONIA)と並立した島国として描かれている。
ここからは二つのことが読み取れる。
一つは、中国同様、ヨーロッパ人も日本は九州島、本州島という主要な二つの大きな島からなる国で、それぞれを独立した島として認識していたということ。
そして、二つ目は、九州島は豊後の一大勢力、大友氏が支配していると見ていたということである。
もちろん、慶長10年時点では大友氏は滅亡しており、九州には家康によって配置された大名たちがそれぞれの国や地域を治めていたことはいうまでもない。
しかし、それでも、ヨーロッパ人にとっては、日本におけるキリスト教の最大の庇護者であり、ローマ教皇にもその名が知られ、かつては九州全域に武威を轟かせた大友氏の印象があまりにも強かったことはいうまでもない。

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