佐和山城下「聞き書き」の謎4

しかし、井伊家はどうしてそこまでして石田三成の痕跡を消そうとしたのであろうか。
井伊家は徳川家康が最も信頼する家臣の一人であり、初代直政は徳川四天王の一人に上げられるほどの重臣である。
この直政は関ケ原合戦では、石田三成率いる西軍に真っ先に攻撃を仕掛け、それを機に合戦が開始されたことはよく知られているが、それ以上に西軍武将の裏切りを陰で誘因したまさに関ヶ原における徳川方の第一の功労者といえよう。。
だが、直政は戦場から逃亡する島津軍を追って、右ひじに深い鉄砲傷を受け、それがもとで、合戦から二年後に亡くなっている。
そんな直政はじめ井伊家にとっては、関が原合戦の事実上の首謀者と目される石田三成は主君家康を亡き者にするために兵を挙げた敵の中心人物であり、その居城であった佐和山城の破壊は当然のことであったろう。
しかし、井伊直政は合戦後に石田三成が捕らえられたとき、家康の命で三成を処刑の日まで預かっていた武将で、直政はかつての豊臣家の奉行であった三成の威信を重んじ、その扱いは丁寧で他の武将たちが感心したという話が伝わっている。
このことから、直政は、例え敵であっても、ひとかどの武将に対してはその体面を重んじることのできる武士の教養と思慮を備えた人物であったと思われる。
そのことから考えると、直政を初めとする井伊家が佐和山城を無残にも破壊したとはとても思えない。
その背景には、何か深い理由があったはずである。

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