「川角太閤記」巻1を読む 秀吉、勝竜寺城付近に布陣す

秀吉が尼崎に到着して禅寺はないかと尋ねたところ、小さな庵が一つ見つかったので、秀吉はそこで休息を取られた。
「上様御切腹の知らせが備中高松に届いて以来、精進を守ってきた。はや敵近くまで来た以上、合戦に及ぶしかないが、年を取ったせいか、空腹で、力が落ちたように思うので精進を断とうと思う。御奉公するには、力をつけ鑓を取り、太刀打ちの覚悟である。・・・台所衆へ魚鳥をなるべく料理し、我が前に出すように」と申された。
さらに、亭主の僧を呼び出して、行水をされ、頭髪を整えられた。
そこで使った櫛を紙に包ませて、仏前に納められ、その僧に言われたことは、「合戦が運にめぐまれた暁には、この寺に五十石、末代まで遣わそう」とのことであった。・・・・
瀬田の山岡、筒井順慶、この衆からの早飛脚が来て、「明智は安土の城へ入って、天下を取ったように思っているが、上様が切腹なされた本能寺では手間をかけずに終わったようであるが、二条御所の信忠様のところでは、お互い軍勢同士がぶつかり、火花を散らしたような戦いであったようで、明智方にも死傷者が多く出たと聞いています。その故に、明智の馬廻りもまばらになっているとのことです。御上洛にあたっては、精一杯加勢申し上げます」とのことであった。このような注進状が秀吉のもとには数多く寄せられたと聞いている。

それより、秀吉は、明智が立て籠もる山崎勝竜寺城近く、一里ばかりを隔てて陣を取られた。
そこから方々に物見を出され、先手は鉄砲頭中村一氏、堀尾茂助、この外四五人である。
また、忍びの者を四五人呼んで、「この周辺の百姓たちの小屋は明かりが見えるが、悉く家は明るくなるであろう。これより南の地へ廻り、京の方より明智の陣へは人の往来は限りがあることであろうが、明智の者のように紛れて入り、夜になったら在所の小屋へ忍び込み、敵陣の物音を午前四時ころまでは良く聞け。そこで夜討ちを入れれば、街道筋へ敵の軍兵は押し寄せて出ることであろう。そうなったら、夜討ちだと心がけ、自然に入ったように、小さい家に火をかけ、焼き上げよ。必ず家ゴミに火を欠かしてはいけない。小さき家一つでも、火はここから見えるものである。これは合図のノロシということである。」
「勝竜寺近くの家々に心を向けよ。火先が見えることもあろう。夜明けまで心にかけよ」と、番の者を出された。
「夜討ちには、大略、相印は紙子(かみこ)、はおりか、しめだすきかの者である。敵と一緒にこのような者がいたら、焼いたり殺してはいけない。味方は刀の鞘に四手を切り、三か所に付けておけ。その上に、具足の左のわたがみにも同じような四手を付けさせよ。素肌の者、徒歩の者には左の襟にこれも刀のごとく四手を付けさせよ」とのことである。

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