川中島合戦雑記7

川中島合戦では武田・上杉両軍に多数の犠牲者が出たとされている。
その数は一説には一万人以上ともいわれているが、もしそれが真実だとすると、まさに川中島合戦は戦国最大の合戦であるいえよう。
この犠牲者の数について、関白近衛前久は謙信への手紙の中で「八千余騎討ち取られ」と上杉軍が武田軍を八千余騎討ち取ったと書いている。
また、信玄も京都清水寺に宛てた手紙の中で「敵三千余人討ち捕り候」と上杉軍を三千余人討ち取ったと報告している。
『甲陽軍鑑』によれば武田軍の数は二万となっているが、近衛が言うように本当に八千余騎も討ち取られたとしたら、武田軍はもう壊滅状態であったはずである。
というのは、あくまでも八千余騎というのは死者の数で死なないまでも負傷した兵士はその何倍もいたと考えられるからである。同様、『甲陽軍鑑』によれば上杉軍の兵士の数も一万三千とあることから、三千も討ち取られたら上杉軍とてとても合戦などできる状態ではなかったろう。
 当時の軍隊は専業の武士は二割程度で、残り八割が農民からなる農兵であったとされている。
彼らは戦のない農繁期は田畑を耕す村にとっては貴重な労働力であった。
だから、領主といえども戦争で彼らをやたらと死なすわけにはいかなかったのである。
もし、先ほどの犠牲者の数が真実だったとすると、当時の人口事情から考えて、村のいくつかはつぶれてしまったことであろう。また、合戦の後でそれぞれの村からそれと同数の兵士を補充することはほとんど困難であったはずである。
そして、何より、合戦で彼らを大量に死なせてしまった信玄や謙信の責任が厳しく問われることになる。

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