もうすぐ発売!『竹中重門と百姓の関ケ原合戦』


もうすぐ『竹中重門と百姓の関ケ原合戦』が発売になります。
この本は第一部が「武将たちの関ケ原」第二部が「百姓たちの関ケ原」と二部形式になっており、私は第一部を担当しております。
この本を書くきっかけになったのは、昨年四月の関ケ原、垂井の現地調査で、新たな発見があったことです。
現地調査は、関ケ原では、玉の城山、宇喜多陣を囲む大土塁、石田三成の本陣笹尾山の裏山、垂井では菩提山城、大垣では赤坂の家康本陣や百姓たちが避難した寺社などを訪れ、時間が許す限り、詳しく踏査しました。
玉の城山は名前が「城山」というだけに、山頂に城郭遺構があることが予想されておりましたが、関ケ原合戦では使われた形跡がなく、関ケ原に集結する予定の部隊を受け入れるために突貫工事で築かれた施設だったのではないかと思われます。
関ケ原には、近江大津城を攻めていた立花宗茂や毛利秀包の軍が到着することが予定されていたはずで、彼らを受け入れる施設が必要だったことはいうまでもありません。
まだ、関ケ原には玉の城山以外にもそのような施設が残されているのかもしれません。
家康軍は、岐阜城を落とした後、次のターゲットを佐和山城としており、それには関ケ原を通過しなければなりません。
三成はそのことを早くから想定して、関ケ原に様々な防御施設を築いていたことは拙著『敗者から見た関ケ原合戦』で述べた通りですが、今回、玉の城山が突貫工事で築かれたと想定される城郭であったこと、さらには、宇喜多陣が強固な土塁で周囲を囲まれていたことから、三成が関ケ原に家康を迎え撃つ城砦を早くから幾重にも築いていた状況があらためて浮き彫りにされたように思います。
その関ケ原での一番の隘路が山中、つまり、大谷吉継が布陣した場所で、家康軍にとってここを突破することが一番のポイントであったと思われます。
そこを大谷と共に守っていたのが、脇坂、小川、赤座らの部隊であったわけで、これが裏切ればひとたまりもありません。
この続きはまた。

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