会津・下野国境の不穏な動き

境目の事情は上杉氏も同じであった。
『那須記』にある那須一族の芦野五郎左衛門に宛てた八月二十日付けの上杉景勝の書状によれば、景勝は那須一族の芦野五郎左衛門を調略し、那須氏内部を撹乱し、結束を乱そうとしていたことがわかる。
芦野は下野と上杉領の境目の地であり、上杉としては、ここを確保しておきたかった。
だが、この文書は廻文で下野烏山の成田氏長にももたらされ、成田はそれを持参した者を討ち取って、上杉の調略を家康・秀忠に注進した。
その結果、この芦野五郎左衛門は結局芦野にいられなくなり、一族と共に会津へ出奔したという。
ここから分かるように、会津・下野国境はこのような徳川、上杉の戦いを予想させる不穏な空気をかもしだしていた。
家康が大坂城を出て、上杉征伐に向かう以前に、関東・上杉の境目ではすでに戦いが開始されていた。

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