ポスト秀吉⑥

しかし、そのようn政権運営に異を唱える実力を持った大名が一人存在した。
それが徳川家康であった。
秀吉の死後から十日後の八月二十八日、中国120万石の毛利輝元は増田長盛・石田三成・長束正家・前田玄以に対し起請文を提出した。
その内容は「もし今度定められた五人の奉行(ここでは五大老)の内、秀頼様への謀反ではなくても、増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家の意見に同意しないものがあれば、私(輝元)は長盛・三成・玄以・正家に同意して、秀頼様に奉公する」というもので、奉行たちはここにはっきりと敵対する勢力として家康を想定していた。
奉行たちは家康と不和になったときは輝元に奉行衆との連携を呼びかけたのであった。
家康を除外し、豊臣政権の維持、そして長き存続をはかる。これが三成らの描くビジョンであった。
朝鮮出兵により、国内は疲弊し、物資の流れが停滞し、経済は大きく混乱していた。
特に朝鮮、中国をはじめとする東アジア諸国との外交が断絶したことから、貿易による輸出入が不能となり、それは国内の物流にも大きな弊害をもたらそうとしていた。
早くに政権を安定させ、東アジア諸国との外交を復活させることは何より緊急の課題であり、さらに戦争に伴う人と物資の過酷な収奪により疲弊した国内の村々の立て直しも急務となっていた。
そこではどれもが待ったなしの状況で、国家を預かる政権としては解決せねばならない問題がすでに山積していた。

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