慶長の山城 関ヶ原松尾山城16

松尾山城が健在である限り、家康軍の関ヶ原突破は厳しいことであろう。
家康は関ヶ原合戦の合戦を「山中の戦い」と言っているが、それは関ヶ原における中山道の隘路が山中村にあったからである。
この隘路の突破こそが戦いの焦点であった。
その山中村には中山道を眼下に見下ろす位置に大谷吉継が布陣しており、中山道を進んでくる敵軍を松尾山城と挟撃する構えを見せている。
松尾山城と大谷陣の間には、松尾山山麓に脇坂安治が、そこからさらに中山道に向かっては小川・赤座の部隊が布陣したという。
赤座・小川隊がいたとされる小山からは中山道に向かって落とされた街道を塞ぐ縦土塁が今も残っている。(『敗者から見た関ヶ原合戦』参照)
ここから分かるように、石田三成方が最も力を入れていたのが、松尾山城から大谷陣へと続く防衛線であった。
また、この地点では中山道は赤座・小川隊がいたとされる小山の裾に設けられた曲輪の中を通る構造になっており、街道を突破しようとすれば頭上から攻撃を受けることになる。
ここには、重層な守りが幾重にも施されていたことが分かる。
自然この地点の攻防が一番のメインであったことはいうまでもない。
家康もここが突破できない限り、勝利は望めなかったことであろう。
繰り返し述べるが、この防衛線の一番の要が松尾山城であり、ここに誰が入るかが勝負を大きく左右することになる。

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