田原坂と関ヶ原

先日、NHKBSの番組で明治の「田原坂」の戦いを取り上げていた。
田原坂は、政府軍が熊本鎮台のある熊本城に物資を運び入れるためにどうしても通らなければならない隘路である。
薩摩軍がここを押さえようとしたのは戦略上うなづける。
また、政府軍もここを突破しなければ勝ちはない。
薩摩軍は政府軍の到着前に何としてもここを押さえておく必要がある。
そこで、薩摩軍は田原坂を眼下に見下ろす高台を押さえ、ここから政府軍に効果的な攻撃を行い、さんざん政府軍を苦しめた。
これに対して、政府軍も薩摩軍の高台を攻撃可能となる新たな高台をついに占領することで戦線を有利に進め、やがては勝利を得ることになった。
私はこれを見ていて関ヶ原の合戦もまったく同じではないかと思った。
関ヶ原も中山道の隘路の攻防戦である。
石田三成方西軍はすべてあらかじめ築かれた高台の陣地に布陣し、戦いをセオリー通りに進めようとしていた。
布陣だけを見れば、黒田長政の陣以外は東軍はまったく不利である。
この態勢で関ヶ原に進軍することは自殺行為だといえるだろう。
それでも、進軍したとすれば、それは、松尾山城の小早川とその山麓に布陣する脇坂が寝返ることが確信できたからとしかいいようがない。
小早川と脇坂はセットで考えねばならず、小早川の寝返りだけでは東軍は勝てなかったと私は思っている。
両者の寝返りは家康にとって勝つための絶対の条件であった。
家康のもとにはそれを確信するだけの情報が寄せられていたに違いない。
寝返りする方は大きな不安を抱えている。ゆえに時間を置いてしまってはならない。、
家康が緒戦の不利を押しても進軍しなければならなかったのはそういう事情があったからであろう。

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