「川角太閤記」巻2を読む 秀吉と勝家の確執

秀吉はすぐに蜂須賀彦衛門、黒田官兵衛、中村孫平次らを召し寄せられ、「明後日のお祝いの日、この秀吉に城の二の丸で腹を切らせるための談合が行われたようである。勝家のところで決まったようだ。こうなれば、早々とここを去って国へ帰るらねばなるまい」
三人に仰せ置かれたことは「明日、皆が尋ねたらいつもの持病が起こり、伏せていますとあいさつしておいてほしい。ただし、手紙などがきたら、適当に返事しておくように」と言いひねり文四つ五つ、判を押したものを三人に渡された。
「明日一日はあしらえても、明後日は必ず勝家より、座敷で待っているので早く登城なさるべしとの使いが来るであろう。そのときの柴田への返事には、筑前はいつもの持病が再発仕ったが、押さえて伺候しようと思いますが、はや目出度く御前への御礼は申し上げておりますので、今日のお祝いには登城に及ばず、急ぎ有馬に湯治に行き、片時も早く養生仕り、御奉公したいと思いますと」と申し、その夜のうちに国へ帰られた。
直ちに有馬へ湯治に行く予定だとのことであった。(後略)

筑前守は播州へ帰城し、勝家から何かの使いがきっと来るであろうと思っているところへ、案の定、大名たちへ触れ状を回され、「上様の後継をどなたにするかと互いに取り紛れて、きちんと御葬儀を行っていなかったがどうであろう、吉法師様が御上洛なされ、大徳寺で執行され、御焼香あそばされるようにすべきではないか」と連判を以て触れ申され、「お手前も連判なさるのが尤もであろう」との使者であった。
筑前守殿ご返事は「御弔いの執行はすべきと思いますが、斯様になさらないでもよろしいのではないでしょうか」と一通申し上げられた。
「上様のお弔いをなされるのに古い寺では天下の聞こえもいかがかと思います。新しく寺を仰せ付けられ、巧みな仏師に上様のお姿を木像にて彫られ、その仏前にて御焼香なさるのが尤もだと思います」と。
柴田殿はどうあっても筑前守の上洛さえ遂げられればと思い、「そのように言うのであれば、新しく寺を建てよ、上様を日ごろからよく見ていた仏師どもを集め、御影を作り奉れ」と京都へ申し遣わされた。
そこで、早速、寺の作事に取り掛かり、御影を彫る仏師たちを寄り集め「御姿を評定詮索仕り、作り掛かるように」と申した。

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