徳川軍の最前線大田原城の大改修

このまま行けば、那須衆は白河口から会津に攻め入る徳川軍の最前線・楯として上杉軍と戦うことになるはずであったが、石田三成が上方で家康打倒の兵を挙げたため、会津攻めは突然中止となった。
しかし、上杉軍の南下、関東乱入の可能性が残されているかぎり、会津・下野国境の防備は手を緩められることなどなかった。
むしろ、今まで以上に国境防備は重要になったといってよい。
ここに徳川による那須地方の城の大改修が始まった。
前回でも述べたが、これより以前、六月には家康の家臣である石川重次、内藤忠清が普請奉行として大田原城に入り城の改修・普請が行われた。
この城は対上杉最前線の徳川軍の拠点として大改修が行われ、今も本丸、二の丸、北の丸などの遺構がよく残り、本丸の周縁には高さ七、八メートルはあろうかという幅の広い土塁がめぐり、虎口には櫓門が設けられていたようである。
また、郭の周囲を囲むような大きな堀が設けられるなど、鉄壁の防備態勢が取られていた。
そこにはかつての国人領主大田原氏の居城の面影などどこにもなく、徳川軍によって改修され大城郭となった城の跡が今も残っている。
これだけの大きな改修を短時間で行うにはかなりの人数を要したことであろう。
また、当然地元の領民たちも駆り出されたはずである。
事実、千人もの人夫が投入されたという話も伝わっている。

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